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苦しみからの解放 – 仏教の智慧で根本から解決する

三相 仏教

「人生でなぜ苦しくなってしまうのか?」ということについては、それこそ、日々、「どうしてだ!?」と悩まられている方が多いでしょう。

人生の苦しみ、生きていくことの苦しみに日々押されて、あっぷあっぷになってしまい、自己啓発書などに解決を求める方もいらっしゃるでしょう。

ところが、本を読んでいる最中は、これで行ける気がする!と思っていても、数日経つと、また元に戻ってしまう…という繰り返しになっていませんか?

人生の苦しみから解放されるためには、やはり対症療法ではなく、根本治療・根本解決でなければむずかしいのです。

今回の記事ではその”根本解決”について考えてみましょう。

 

人生の正体を見破り、上手(うわて)に立つ

人生<あなた、の図式へ持っていく

それでは、なぜ人生に苦しくなってしまうのか?

この理由を一言でいえば、「人生とがっぷり四つに組み合ってるから」ということになります。

相撲でもがっぷり四つに組み合っていると、どちらが勝つか負けるか、分かりませんよね?

相撲

仮に人生が”関脇”だとして、あなたも”関脇”であれば、がっぷり四つでどちらが勝つか分かりません。いや、それどころか、あなたが”幕下以下”であれば、かんたんに負けてしまうでしょう。

この例でいけば、人生に勝つためには、あなたは”関脇”より上でなければなりません。

もし、あなたが、”大関”や”横綱”であれば、人生に勝つこと、苦しみから抜け出すことはそれほど大変なことではない、ということがお分かりだと思います。

つまり、力関係で行けば、

 人生>あなた

であるから、ぐいぐい押されてしまうわけであって、逆に、

 人生<あなた

の図式に持っていければ、負けることはないということがお分かりかと思います。それゆえ、「人生より上手(うわて)にたつ」ことが肝要なのです。

ここが「苦しみから解放される」ための契機となっていきます。

人生の正体を見破ること

それでは、どのようにしたら人生より上手にたつことが可能になってくるのか?

それは、「人生の正体を見破ることにある」と私は思っています。

敵を知り己を知れば百戦殆うからず

と、孫子の兵法でも言いますよね。

 *参考書籍:『孫子の兵法―――考え抜かれた「人生戦略の書」の読み方 』(守屋洋著)

孫子の兵法

敵に勝つためには、敵が何であるか?をまず知らなければいけないのです。今回の例で言えば、「人生とは何ものなのか?」を知らなければなりません。

それはすなわち、「人生の正体を見破る」でもあるのです。

人生=現実世界は、”仮想現実”である

それでは、「人生とは何ぞや?」ということについて、根本的に見破ってまいりましょう。

人生、すなわち、現実世界ですね。”現実”というのは、「実の現れ」という字を書きます。”実”とは”実在世界”のことです。

現実世界の背後に実在世界があるわけですね。人生=現実世界は、実在世界の映しのようなものなのです。

今風に言い換えれば、人生=現実世界は、いわば、”仮想現実(バーチャルリアリティ)”の世界なのです。

仮想現実

仮想現実であるにも関わらず、それを「本当に存在するもの」と思っているから、実人生と同じ土俵にたって、がっぷり四つか、それ以下になってしまうというわけなのです。

以前、「人生はRPG(ロールプレイングゲームのようなもの」と述べたこともあります。

 *参考記事:人生をRPG(ロールプレイングゲーム)と考えるための究極の方法

これは結構、わかりやすい例えかな、と思っています。

任天堂の3DSで「国取りゲーム」などをやっていると夢中になるかもしれませんが、ゲームをやることによって決定的に落ち込むとか、ダメージを受けることってあまりないですよね? 

これはなんでかというと、「本当の世界ではなく、バーチャルな世界だから」ということが分かっているからです。

だから、ひどく落ち込むこともない。

これと同じように、

現実世界の人生そのものを”仮のもの”だと捉えることができれば、苦しみから抜け出していくことができるのです。

私たちが本来、住んでいる世界は実在世界であって、この現実世界は、魂を磨くために(さらに、愛の実践のために)、”仮に”過ごしている場なのですね。

ちなみに、ネオ仏法では、現実世界のことを現象界、実在世界のことを実在界、と表現しております。以下、その用語も使ってまいります。

  • 現象界:現実世界、仮の世界
  • 実在界:実在世界、ほんとうの世界

です。

仏教の”三法印”を知って、RPG化を実感ベースに落とし込む

「現実世界は仮の世界である、バーチャルである」ということを聞いて、「なるほど!」と思えたあなたは素晴らしいですが、

実際に苦しみから解放され、「人生をRPG(ロールプレイングゲーム)」だと心底まで思えるようになるためには、やはり実感ベースまで落とし込む必要があります。物事はなんでも、腑に落ちていなければ、なかなかモノになりませんよね。

そこで今回は、仏教の教えの旗印ともいえる”三法印(さんぽういん)”について学んでまいりましょう。かんたんにご説明してまいりますので、ご安心くださいね。

三法印とは、「3つの法の印」と書きます。

つまり、以下の3つの法(=教え)が「仏教ですよ」という印になっているということです。

諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の3つです。

それぞれを、まず、一言でにご紹介すると、

  • 諸行無常:現象界の物事はすべて変転変化していく
  • 諸法無我:現象界の物事はすべて実体(ほんとうの存在)ではない
  • 涅槃寂静:実在界の観点から現象界を見抜けば、苦しみから脱して幸福になることができる

ということになります。

では、それぞれを順に観ていきましょう。

諸行無常

たとえば、今、あなたが苦しんでいること、楽しいと思っていること、価値あるものと思っていることは、ずーっと続いていくものであるのか?ということを想像してみましょう。

すると、たいていのもの、というか、この世の事象はすべて、「移り変わっていくもの」ということが分かります。

この、「常に変転・変化していくものである」ということを、仏教では一言で、”諸行無常”と表現しているわけです。

そして、移り変わっていく、変転変化していくものに執われる必要があるのか??ということを考えてみましょう。

物事はすべて変転・変化していくにも関わらず、それを恒常なもの、ずっと続いていくものだと囚われているから「苦しみ」になっているわけですね。

諸法無我

さらに、今、あなたを苦しめているものは、本当の存在(実体)であるのか?これは、仮構されたものではないか?と捉えていくのが”無我”ということになります。

仏教で”法”という言葉を使うときは、大きくは、「教え」という意味と「存在」という意味があります。

諸法無我の”法”は、後者の「存在」という意味です。

「もろもろの存在は無我である」ということになります。

”無我”というのは、「我がない」と書きますが、一言でかんたんに言えば、「本当の存在ではない」「実体ではない」というふうに理解していきます。

なぜ、本当の存在ではないと言えるか?

たとえば、あなたという存在ひとつをとっても、「はい、これがあなた自身です」と取り出すのはむずかしいのです。

「どこからどこまでがあなたであるか?」説明ができますか?

たった今も空気を吸って体内に取り入るでしょうけど、体内の空気は”あなた”に含まれますか?

(あまり気持ちの良いたとえではありませんが、)指を1本切り落としたら、あなたではなくなりますか?腕を切り落としたらあなたではなくなりますか?

どこからどこまでが”あなた”でなのでしょう?

また、さきに空気の例を出しましたが、もし今、空気がなくなってしまったら、あなたは存在できなくなるでしょう。食べ物も水も必要です。

…このように考えていくと、”あなた”とひとくちで言ってもなかなか捉えきることは難しいですし、あなたはあなただけで独立して存在しているわけではないことが分かります。

空気や水、食べ物…などと相互依存しながら、”今ここ”に仮に存在しているのが”あなた”であるというわけです。

そうであるならば、「わたし」とか「わたしのもの」にこだわる価値はどれほどあるのでしょうか?

無我、すなわち、「わたしは本来的なものでは無い」ということが分かれば、”私”にも”私のもの”(私のお金、私の車、私の財産……以下、えんえんと続く)にもこだわることがバカバカしくなりませんか?

このように、”あなた”も含めて、一切の存在(諸法)はそれ自体では存在できない、仮の存在である(無我)と観じていくのが諸法無我であるのです。

仮の存在である、”無い”と思えるからこそ、執われから離れ、苦しみから開放されていく、という構図になっているわけです。

涅槃寂静

無常というのが、”移り変わり”という「時間論」を中心に捉えていくのに対し、無我は、”実体であるのか?”というふうに「存在論」で捉えていきます

時間を縦糸、存在を横糸としてみると、たとえば、”あなた”という存在は、縦糸と横糸が交差するところの、ある”一点”に、仮に存在しているというふうに考えることができます。

座標

ある時間とある空間の交差する一点に、たまたま現象としてあることが許されている儚い存在です。

「儚い」という言葉は、「人という夢」と書きますが、まさしくこれは、あなた自身が仮構された、夢のような存在であるということを意味しています。

このように、時間軸としては無常(諸行無常)、存在軸としては無我(諸法無我)であることを観じていくと、だんだんと執われから脱し、苦しみから解放されていくことに気づくでしょう。

この解放されていくことを仏教用語で”解脱(げだつ)”と言い、解放された結果、得られる安らいだ境地を”涅槃(ねはん)”と呼んでいるのです。

”涅槃”は、サンスクリット語の”ニルヴァーナ”の音写です。

ニルヴァーナとは「吹き消すこと」という意味です。

なにを吹き消すかと言うと、これは仏教用語では”煩悩(ぼんのう)”と言いますが、要するに、幻想、イリュージョンですね。

単なる幻想・イリュージョンへの執われの炎を「ふっと吹き消していく」というわけです。そこで安らかな境地が得られる、これが涅槃寂静です。

”涅槃”のアップデート

さて、上記の説明はごく一般的な仏教の解釈です。

しかしここにはひとつの落とし穴があります。

それは、「時間的に観じても、変転変化していく、過ぎ去っていく。存在的に観じても、たまたま”在る”ように視えているだけである」ということでは、

「ああ、空しい…」というふうに、ニヒリズムに流れていく危険性がありますね。

ネオ仏法では、このニヒリズムをも克服していきます。

冒頭のほうで述べたように、私たちは本来、実在世界(実在界)の住人です。

しかし、魂を磨くために、たまたま今、この地上世界(現象界)に生まれてきているのです。

あなたの本当の日常生活は別にある(実在界)にも関わらず、たまたま演劇でもするかのように舞台(現象界)にいるというわけです。

演劇

このように「演劇的に」捉えることによって、はじめてニヒリズムを克服していくことが可能となってきます。

あなたはある特定の名前を持ち、職場での役割、家庭での役割…などがあるでしょうが、それはこの世(現象界)限定のリミッテッド・バージョンに過ぎない、というわけです。

魂の磨きのためにある特定のアイコンを使ってゲームをしているということですね、ここにおいて初めて、「人生はRPG(ロールプレイングゲーム)」であることが実感ベースに落ちてきますよね。

無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である

上記の通り、三法印で物事を観じていけば、人生の苦しみから解放されていくことになりますが、ここでひとつ、詩句をたずさえて生きていくと良いです。

それが、仏典に書かれている仏陀・釈尊の言葉、

無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である

です。

仏教では、無常・苦・無我の3つを合わせて”三相”と呼びます。

この場合の”苦”とは、原語としては、”苦しみ”というより、”空虚”という意味です。

”無常”と”無我”はすでにご説明しましたよね。

変転変化していくもの(無常なるもの)は、空虚で執われるに値しない(苦であり)、空虚なものは(苦なるものは)それ自体では存在できないもの(無我である

というふうに、自分に言い聞かせていくのです。

このようにして、人生で「苦しいな」と思ったとき、「人生とがっぷり四つになってしまっている」と思ったときに、

ひとつの呪文として、仏典の一節(もう一度書いておきます)、

無常なるものは苦であり、苦なるものは無我である

と唱えるのと、すーっと気持ちが楽になってきます。

解放

楽になってくると同時に、真理が実感として腑に落とされていきます。

要は、「バーチャルに執われるのはやめましょうよ」と自分に言い聞かせているわけです。

このような、「つぶやき型仏道修行」で軽やかに、人生の苦しみから都度、離れていきましょう。

今回は、三法印について、とてもかんたんに述べました。

とくに、”涅槃”のアップデートはとても重要な論点です。もっと詳しく専門的に知りたい方は下記の記事をご参照ください。

 *参考記事:涅槃の解釈に誤りがある– テーラワーダ仏教批判④

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