真実不虚 – 菩薩の知性と人間の知性

天使の知性

前回(是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦)の続きで、今回はシリーズ32回目です。
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真実不虚 

読み:しんじつふこ

現代語訳:偽りではなく真実である。

”真実不虚”の主語は、前々回(故知般若波羅蜜多)の論考にある「般若波羅蜜多(智慧の完成)は」です。

現代語訳としては、「偽りではなく真実である」ということで、つまりは「般若波羅蜜多(智慧の完成)は真理である」と言っているわけですね。

深い意味が込められていると言うより、いわゆる”念押し”という箇所で、述語の末尾として、リズムと形式を整えています。

なので、あまり深入りする必要はなく、スルーしても良いのですが、せっかく「般若心経の悟りを超えて」と銘打っていますので、もっと深い意味を付与しておきましょう。

般若波羅蜜多(智慧の完成)は、いわゆる”空観(くうがん)”、「空なるモノの見方」であると縷々述べてきました。

そして、”空なる”ということは、一般的な解説としては、「あらゆる存在は実体性を欠く。ゆえに執着するに値しない」ということです。

”無い”ものに執着をする必要はありません。そもそも、「苦しみの根源は執着にある」というのが仏教の思考の中心点です。

ここのところは、四諦八正道、すなわち苦集滅道(くしゅうめつどう)のなかの”集”と”滅”ですね、

  • 集:苦しみの原因は執着にある
  • 滅:執着を滅すれば涅槃(=幸福論)にいたる

という流れと軌を一にしております。

幸福論に至るからこそ、前回の論考で採りあげた”能除一切苦”、すなわち、「すべての苦しみを取り除く」ことができるわけです。

”苦”の状態がなぜ現れてくるかと言うと、それは真実でないものを”有る”というふうに執われている。つまりは、人間が本来的なあり方から離れてしまっているからです。

そこで、空観という真理をふたたび取り戻して、本来性へと回帰する必要があるのです。

ネオ仏法では、エキュメニカルな思考を大事にしていますので、ここのところもエキュメニカルに捉え直しておきましょう。

*”エキュメニカル”とは、狭義には「教会一致」ということで、さまざまなキリスト教諸派を総合していこうとする思考・運動のことですが、ネオ仏法ではもっと幅広く、「さまざま宗教・哲学・思想を総合していく思考・運動」と捉えています。

「本来性」という言葉を使いましたので、対義語の「非本来性」とともに意味合いを確認してみましょう。

  • 非本来性:本来的なあり方から離れている
  • 本来性:本来的なありかたを取り戻す

仏教(大乗仏教)において肝要なことは上述のとおり、「空観を取り戻す」ことであり、それが本来性への回帰である、ということになります。

本来性へ回帰することによって、涅槃つまり幸福論を手にすることができるわけですね。

ここのところをキリスト教との整合性で考えていくと、”罪”あるいは”原罪”の状態から「義とされる」状態へ回帰するということに相当すると思われます。

キリスト教的な文脈で”罪”というのは、じつは「的外れ」というのが原義なのです。これは言い換えれば、”非本来性”ということですよね。

では、キリスト教において、”罪”の状態から”義”の状態への回帰、本来性への回帰はいかになされるのか

これは、「信仰による」。あるいは、神の側から見れば「恩寵による」というのが答えになります。

少なくともプロテスタント的には、これが答えと行っても良いでしょう。

それでは「信仰とはなにか?」ということが次に問題になります。

結論から言えば、これは「神(神的実在)中心の世界観を手に入れる」ということなのだと思います。

私たちは信仰を持たない状態においては、自分中心、自我中心の世界観のなかにありますよね。

それは、地動説のように「自我を中心にまわりの世界が展開している」かのような価値観です。

それに対して、信仰とは結局のところ、「神を中心に自己や他者が展開している」という天動説的な価値観なのです。

よく、「回心する」という言い方をしますよね。「改心」ではなくて「回心」、コンバートです。つまり、観の展開がなされるということです。

自我中心の世界観から神中心の世界観へコンバート(回心)すること、これが「信仰を得る」ということであり、その過程そのもの、あるいは、その結果得られる幸福感が”恩寵”を得ている状態であるのです。

まとめてみましょう。

キリスト教の文脈においては、「信仰があるかないか」によって、

  • 非本来性:自我中心の世界観(罪の状態)
  • 本来性:神中心の世界観(義の状態)

これら2通りの状態がある。

これが仏教(大乗仏教)においては、「空観を手に入れるかどうか」によって、

  • 非本来性:自我中心の世界観(苦の状態)
  • 本来性:法中心の世界観(解脱の状態)

これら2通りの状態がある。

と、いうことになります。

そして、経典に曰く、

法を見るものは仏を見る

でありますので、仏教においては、

  • 非本来性:自我中心の世界観(苦の状態)
  • 本来性:仏中心の世界観(解脱の状態)

と言い換えることができます。

そうすると、「本来性への回帰」ということでは、

  • キリスト教的本来性:神中心の世界観(義の状態)
  • 仏教的本来性:仏中心の世界観(解脱の状態)

というふうに、ほんとんどニアリーイコールになります。

といいますのも、仏陀の本質部分を「久遠実成の仏陀」と言いますが、これはもうキリスト教(セム的一神教)における唯一神とほとんど同じなんですよね。

違いといえば、「世界創造を行うか、行わないか」くらいですが、これもネオ仏法的にいえば、「世界創造をあえて語っているか、あえて語っていないか」だけの違い、ということになります。

仏教とキリスト教というと、違いばかりが強調されるきらいがあり、そうした書物や論文はいくらでもあるでしょう。

しかしこれは、あくまで「人間の側から見た」違いに過ぎないのです。

仏(神)の側から、あるいは、菩薩(天使)の側から見れば同じ風景が「観えている」のです。

地上に教え(法)を下ろすときに、時代性や地域性、民族性などを考慮して「下ろし方」「見せ方」を変えているに過ぎないのです。

「天使博士」と言われたトマス・アクィナスによると、「神あるいは天使の知性」と「人間の知性の違い」は、「全体を一度で把握できるか」、「部分のみを把握しているか」、の違いです。

人間は真理全体の一部のみを知性認識して、せいぜいが「部分と部分」を理性的推論(純粋理性)によってつなぎ合わせ、「より全体に近い認識」を得ていく過程にあるわけですね。

それに対して、仏(神)は知性そのものであり、菩薩(天使)は知性全体をいちどきに把握することができます。これが大きな違いです。哲学的には、全体への”純粋直観”と言っても良いでしょう。

たとえれば、シャルトル大聖堂そのものが仏(神)であり、シャルトル大聖堂の全景をいちどきに認識できるのが菩薩(天使)であり、シャルトル大聖堂の部分(尖塔のみ、扉のみ、など)を認識しているのが人間なのです。

「尖塔のみ」とか「扉のみ」しか見えていないので、「仏教とキリスト教は違う」といった意見がたくさん出てくるのですね。

これももちろん、「部分的には」真理であるのですが、全体として把握できる菩薩(天使)から観れば、「同じシャルトル大聖堂をどの角度から見ているか」の違いに過ぎない、ということです。

”真実不虚”から、派生してずいぶん遠くへ来てしまったようですが、今回はエキュメニカルな立場、ネオ仏法的な立場から論じてみました。

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