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諸行無常と諸法無我の違いとは?

諸行無常 諸法無我 違い

諸行無常(しょぎょうむじょう)と諸法無我(しょほうむが)は、三法印(さんぽういん)という「仏教の教えである3つの印」を構成している2つです。

残り一つは、”涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)”と言います。

「仏教の教えである印」であるにも関わらず、この2つは区別するのがけっこう難しいと思われています。

諸行無常のほうは、

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり(平家物語)

でけっこう有名ですよね。無常観というのは、日本人の感性に合うようです。

諸法無我のほうが、多く解釈が必要で、理解の難易度は高いです。

今回はこの、「諸行無常と諸法無我の違い」というテーマで、なるべく分かりやすく書きつつ、さらに、一般の解説を超えたレベルまでお話していきたいと思います。

諸行無常は時間論、諸法無我は存在論

この見出しでもう答えを書いてしまいました。

  • 諸行無常:時間論
  • 諸法無我:存在論(空間論)

と分けて考えると理解しやすいのです。

順番に見ていきましょう。

諸行無常

まずは、”諸行無常”という言葉を分解して、意味を探ってみましょう

  • 諸:もろもろの
  • 行:事物は
  • 無常:常ならず

となります。

”行”は「行い」という意味ではなく、「事物」くらいの意味です。

「もろもろの事物は常ならず」

つまり、「一切の存在は変転変化をしていく」という意味です。これは裏をかえせば、「恒常不変なものはない」ということですね。

ところで、”変化”というのは、そもそも何であるか?

たとえば、Aという状態からA”という状態へ移行するというのはどういうことであるか?

私たちは、つい、時計的な時間の推移が変化を引き起こすと思ってしまいます。

しかし、事実はむしろ逆で、A→A”という変化の推移のなかに私たちは時間を感じ取っている、あるいは、A→A”という「変化そのものが時間である」という見方もあるわけです。

変化

その証拠に、世界中の時計を止めても、世界は変化の中にあるでしょう。

”変化”こそがじつは”時間”なのです。

このように考えてみると、諸行無常すなわち、「万物は変転変化していく」という思想は、じつは時間論でもあるということが分かります。

諸法無我

諸法無我についても、言葉の分解から始めていきましょう。

  • 諸:もろもろの
  • 法:存在は
  • 無我:無我である

となります。

”法”はサンスクリット語で”ダルマ”、パーリ語で”ダンマ”と言いますが、これは実はさまざまな意味があります。

諸法無我の文脈における”法”は、「存在」くらいの意味です。

さて、「無我である」というのはいかなることか?

結論から申しあげると、これは”存在論”に相当するのです。”無常”が時間論であるのに対し、”無我”は存在論です。あるいは、”空間論”と言っても良いです。

「無我」というのは、「我が無い」と書きますが、これは「それ自体では存在できない」という意味です。

それ自体では存在できず、他の事物との関係性においてかろうじて「在るように」見えている、ということです。

たとえば、あなたという存在は、他の存在と独立して”在る”ことができるか、考えてみましょう。

”あなた”という存在は、「どこからどこまでがあなたであるのか?」答えることができますか?

息を吸い込めば空気が体内に入ってきます。

その空気は体内にあるのだから、”あなた”の一部なのでしょうか?

指は”あなた”を構成している不可欠な要素でしょうか?

それならば、(たとえはあまり気持ちの良いものではありませんが)、指を切り落としたら、もう”あなた”ではなくなるのでしょうか?

指を切り落としても、依然として”あなた”であるならば、いったいどこまで切り落せば”あなた”でなくなるのでしょうか?

このように考えてみると、”あなた”と”あなた以外”というものは、キッチリと分けられるものではなく、境界がじつにあいまいであることが分かります。

関係性

身体であれ、心であれ、あなたはあなた自体で存在することはできず、つねに他の存在との関係性において存在しています。

これが、”無我”であるということなのです。「それ自体では在ることができない」ということですね。

また、こうした性質を仏教用語で「依他起性(えたきしょう)」と言うこともあります。「他に依存(いそん)して起こる性質」であるということです。

諸法無我、「もろもろの存在はそれ自体では”在る”ことはできない。つねに他の存在との関係性の中でかろうじて”在る”ように見えている」ということで、これはやはり存在論に相当するのです。

もっともそうは言っても、一方では、”あなた”という現象は依然として”在る”と言うことはできます。

ここのところは、「有無の中道」で見ていく必要があるでしょう。

諸行無常と諸法無我の関係

さて、それでは、諸行無常と諸法無我とはいかなる関係になっているのでしょうか?

  • 諸行無常:時間論
  • 諸法無我:存在論

ということでした。

諸行無常においては、たとえばAという存在は、時間の流れの中で、

A(過去)→A’(現在)→A”(未来)

というふうに変化していくとします(この”変化”そのものが”時間”でもあることは上述したとおりです)。

A’(現在)というものは、A(過去)とA”(未来)との関係性において、仮に「今ここ」に”在る”ということもできます。

「関係性において在る」ということは、これは上述した”諸法無我”でもある、ということになりますよね。

一方、諸法無我についてチェックしてみると、たとえば、

他者B→あなたB’→他者B”

というふうに図式化することができます(依他起性です)が、この”関係性”というのは、時間の推移のなかで成されていますよね。

さきほど、「空気とあなたの関係性」について述べましたが、

息を吸う前のあなた→息を吸ったあなた→息を吐いたあなた

というふうに、「空気とあなた」は空間的に依他起性(=無我)でありますが、同時にそれは、時間的な推移のうちになされているということです。

このように考えてみると、諸行無常と諸法無我というものも、ハッキリと分けられるものではなく、それぞれが一方を含んでいる、と考えることができます。

言葉を換えれば、「ある事物を時間論的断面から眺めたのが”諸行無常”であり、存在論的断面から眺めたのが”諸法無我”である」ということになります。

断面

イメージしやすいようにまた別の角度から考えてみましょう。

仮に、時間軸を縦軸とします。そして、存在軸を横軸とします。

その縦軸と横軸が交差する地点がまさに「今ここ」であります。

縦軸と横軸を、ロープでイメージすると分かりやすいでしょう。

縦にしたロープと横にしたロープが交差するところが「今ここ」です。結び目のところですね。

ところが、ロープを外してしまえば結び目は雲散霧消してしまいます。

そう考えると、結び目は一応は”有る”と言えるが、かんたんに外れてしまうという意味では”無い”とも言える。

ここでも、「有無の中道」が成立しているわけです。

諸行無常と諸法無我はすなわち、「時間と存在」である。順序を逆にして「存在と時間」とすると、これは、マルチン・ハイデガーの主著『存在と時間』と同じになります。

存在と時間

じつは、『存在と時間』という本は上述した論理を展開している書物で、仏教的には「”在る”ということを諸行無常と諸法無我の観点から分析している」のとほぼ同じことを言っています。

ハイデガーは、「存在とは時間のことである」と言っていますが、実際は、「時間とは存在のことである」と言うこともできるのです。

事物を存在論的断面からみるか、時間論的断面からみるか、の違いに過ぎないわけです。

諸行無常・諸法無我と”縁起”

つぎに、仏教思想の中核である”縁起”は、諸行無常・諸法無我とどう関わってくるのか、を考えてみます。

結論から言えば、下記のとおりです。

  • 諸行無常:時間論的縁起
  • 諸法無我:存在論的縁起

それぞれを見ていきましょう。

諸行無常:時間論的縁起

諸行無常は時間論であり、たとえば、

A(過去)→A’(現在)→A”(未来)

と推移していくと上述しました。

「推移する」というのは、ヤタラメッタラに推移するというのではなく、ある法則にしたがって推移しています。

ある原因があり、結果を引き起こす。そして、その結果がまた新たな原因となり、次なる結果を引き起こす…というふうに、無限に推移していきます。

この原因と結果の法則が大雑把に言えば、”縁起”あるいは”縁起の理”と呼ばれているものです。

諸行無常においては、時間の流れにおいて”縁起”が展開していっております。

したがって、「諸行無常は時間論的縁起」と言うことができるのです。

諸法無我:存在論的縁起

諸法無我は存在論であり、たとえば、

他者B→あなたB’→他者B”

という関係性において成り立っていると上述しました。

こちらも諸行無常と同様に、無秩序に関係づけられているのではなく、「ある”縁”にしたがって”起こる”」ということ、すなわち”縁起”ですね、「縁起の理」という法則において関係づけられています。

したがって、「諸法無我は存在論的縁起」と言うことができるのです。

智慧と慈悲、そして幸福論へ

今回は「分かりやすく」と言いながら、かなり哲学的に書いています。

もっとも、通常の哲学書を読むのに比べると、かなり分かりやすいはず、と自負しております。

ここまでの論考でも相当に深遠な真理ありますが、さらにここから、「奥の奥」へ分けっていくことができます。

そこのところはまた別な論考で詳述していますので、ぜひ参照なさってください。

縁起の理が”智慧と慈悲”という「存在の二大原理」に関係してくることは下記の記事をご参照ください。

*参考記事:縁起の理とは何か – 「存在と時間」に分けて解釈してみる

また、諸行無常・諸法無我が「世界はこのようにある」という受け身の認識であることを超えて、「主体的に無常・無我を引き起こす」こと、そしてそれが新時代の幸福論でもあること、については、下記の記事をご参照ください

*参考記事:上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違い・対立を乗り越えるネオ仏法

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