四向四果とは本当に仏説か?- 解脱の解釈に問題がある

四向四果

悟りと、実在界(あの世)の構造論については、今までは、天台宗の十界説を援用してご説明してまいりました。

*参考記事;十界と十界互具 ー 仏教における”世界”の階層構造論

釈尊の時代では、世界の構造論としては、十界ではなくて、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)という分類の仕方で説かれておりました。

ただ、六道の思想では、たとえば”畜生”というのが、この世の動物の世界に生まれることを言っているのか、あの世の畜生道のことを言っているのか、いまいちハッキリしていません。

釈尊の時代では、阿羅漢(アラカン/サンスクリット語ではアルハット)が悟りたるもの=覚者と言われておりまして、阿羅漢が最高段階だったのです。

そういう意味では、釈尊自身も(少なくとも初期の段階では)阿羅漢だったのですね。

そして、四向四果(しこうしか)と呼ばれる、阿羅漢に至るまでの段階、というのが説かれていました、と言われております。

「言われております」とわざわざ書いたのは、四向四果の思想に仏説でないものが混じっていると思われるからです。

そのように申し上げると、「『四沙門果経』というお経が残っているじゃないか!」と反論される方もいらっしゃるかと思います。

しかし、前提としてひとつ申し上げておきたいことは、「上座仏教(テーラワーダ仏教)が仏説を直接に継承してることには学問的にも立証しきれない」ということです。

上座仏教の教えが現在のかたちになったのは、紀元後5世紀になってからです。ブッダゴーサという仏教学者が、独自の見解で、仏説とそうでないものを振り分けたのですね。

5世紀と言えば、「遅れて編集された」と言われている大乗仏教でさえ、中期に入っている頃です。

目次

四向四果と解脱

四向四果は、悟りの段階論

四向四果は、別名、”四双八輩(しそうはっぱい)”とも言います。

具体的には、上から順番に列挙してみますと、

  1. 阿羅漢果(あらかんか)…実力、阿羅漢(輪廻から解脱した”覚者”)
  2. 阿羅漢向(あらかんこう)…気分は、阿羅漢
  3. 不還果(ふげんか)・・・実力、解脱(生まれ変わってこなくてもいい)
  4. 不還向(ふげんこう)・・・気分は、解脱
  5. 一来果(いちらいか)・・・実力、もう一回生まれて修行すれば解脱
  6. 一来向(いちらいこう)・・・気分、もう一回生まれて修行すれば解脱
  7. 預流果(よるか)・・・実力、修行者
  8. 預流向(よるこう)・・・気分は、修行者

の8つの段階になります。向と果がおのおの4つあるので、計8段階となります。

それぞれの解説で、「実力〜、気分〜」となっていますが、普通の仏教書を読んでも、こういう解説ではないと思います(笑)。

とりあえずは、専門的な説明よりも、分かりやすさを重点に説明してみました。つまり、”果””と向”の違いは、境地としての安定度の差であると言えます。

それぞれの段階で、どういった悟りが必要であるか?については、ウィキペディアなどでも解説されていますので、そちらをご参照ください。

本稿の目的は四向四果の解説ではなく、「そもそも、四向四果の分類は無理がある」というものです。

解脱(げだつ)とは何か?

上記の解説を読んで頂けえればお分かりになるかと思いますが、四向四果の段階は、「解脱(げだつ)できるかどうか」が関心の中心になっているのが分かります。

そこで、解脱(げだつ)とはそもそも何であるか?というところが問題になってきますね。

釈尊の時代(当時のインドの共通認識)で言う解脱とは、簡単にいえば、「悟ったので、もう地上に生まれ変わる必要がなくなる」「輪廻の枠から外れる」という意味でした。

これ、現代日本のような先進国に住んでいると、多くの方にとって、ちょっと実感として湧かないですよね。

多くの人にとっては、「え?地上は楽しいので、また生まれてきたいんですけど…?」ってなるのではないでしょうか?

釈尊当時のインドは政治経済の興隆期ではありましたが、やはり現代の先進国に比べればキツイ状況であって、「もう生まれてきたくない、輪廻から外れたいです!」というのが、多くの人のニーズ、ウオンツでした。

そのためには、悟りを得なければならず、悟りを得て悟りを説く人物=仏陀が出現するはず。という、一種の仏陀待望論があったのですね。

で、「われこそは覚者なり」と主張する人物が幾人かいて、「どれが本物の仏陀なのか??」という状態であったかと思われます。

少し、脱線しますが、あなたが釈尊あるいはイエスと同時代に生まれたとして、「この人は仏陀である」「この人は救世主である」と、たしかに認識する自信がありますでしょうか?

今でこそ仏教もキリスト教も世界宗教になっておりますが、当時は新宗教のひとつに過ぎません。

数百年、数千年たって権威がたってから信仰するのは、ある意味、楽ですが、歴史的に積み重なった権威がないと信じられない、ということであれば、イエスと同時代に生まれたとしても、パリサイ人になってしまった可能性はありますね。

当時は、「仏陀はバラモン(祭祀)階級から出現する」とも言われておりましたので、クシャトリア(武士階級)出身であった釈尊に対しても、「仏陀であるはずがない」という一見、正当な批判もあったわけです。

仏陀とか救世主はさておいても、かように同時代において真実に気づく、認めることができるというのは、本当に難しいことであるのです。

話しを解脱に戻しましょう。

結局、修行とその結果である悟りの深まりの度合いで、解脱=輪廻の枠からはずれ、生まれ変わってこなくても良くなったかどうか、という段階論があったわけです。

その段階論は、わりと「文字どおり」になっていまして、

  • 預流:修行の流れに入り阿羅漢へのルートに乗ること。解脱のスタートライン。
  • 一来:「なかなか修行が進んできたけれど、もう1回生まれて修行すれば解脱できます」という段階
  • 不還:「この世を含めた人間的な欲望の世界(=欲界)にはもう生まれてこない」という段階
  • 阿羅漢:「解脱して涅槃(ねはん)の境地を得て、この世はもとより、あの世でも人間的な属性をもった三界には生まれない」という目出度いゴールに至るわけです。

*三界=欲界・色界・無色界の3つ。 とりあえず、未だ人間的な属性が残っている世界、と仮押さえしておいてください。
*涅槃:一切の執着を離れた安らぎの境地、ととりあえず仮押さえしておいてください。

繰り返しますが、それぞれの段階で、”向”と”果”に分かれているのは、実力、安定度の違いですそれで、「実力、」「気分、」と書き分けているわけです。

四向四果の思想には仏説でないものが混じっている

以上が、大まかな解説になりますが、じゃあ、四向四果は本当のところ、どうなのか?という点につきまして、ネオ仏法の視点を入れて論じていきましょう。

四沙門果経には仏説でないものが混じっている

冒頭でも書きましたが、上座仏教(テーラワーダ仏教)が釈尊の初期仏教を忠実に継承しているとは立証できません。

紀元後5世紀にはいってから、ブッダゴーサという学者が仏説とそうでないものを恣意的に振り分け、また、その後もいろいろな改変があって、現在の上座仏教の経典類が整ってきたのです。

紀元後5世紀と言えば、「のちに創作された」大乗仏教でさえ、中期にはいっているころです。

そうは言っても、「四沙門果経に仏説でないものが混じっていることも証明できないではないか」と主張する方もいらっしゃるのでしょう。

その点についてはまさにその通りで、学問的・文献的にはもはや証明できない領域に入ってきます。

なので、「私自身の霊的直感力にしたがってそのように主張している」という前提でお読みください。

私の直感によると、四向四果というのは仏陀によって、近い考えは説かれていたと思われます。

しかし、下記に述べるところの”解脱”の理解に、そもそも仏陀の真意が見失われているところがある、と理解しております。

”解脱”の解釈に無理がある

四向四果の分類には、そもそも”解脱”についての誤解があるように思われます。

まず、実際は、阿羅漢になっても、地上には何度も生まれてきています。

ただ、

生まれてくるにしても、生まれてくる目的、が違うのですけどね。

普通の人は、魂としての個人的な課題をクリアして、進化のきっかけにしていく、という私的課題優先の生まれ変わりをします。

たとえば、嫁姑問題。

「うちのお義母さん、やだなー、憎らしいなー」ということで、喧嘩が絶えないとして。

そういうケースでは、いわば”カルマ返し”とでもいいますか、嫁と姑の立場を逆転させて、次回の人生で姑の側にたってみる、という経験をするのですね。

そこで悟るものがあれば、この課題はお仕舞い、ということになるんですけど。

たいていの場合、輪廻転生もカルマもまじめに信じていませんので、嫁になったり、姑になったり・・・を延々と、何千年も繰り返していたりします。

嫁姑問題に限らず、夫婦問題、親子関係、友人関係、国家との関係、などなど、人間としての営みすべてですね。

真理知識を学ぶということは、神仏とは何か、人間とは何か、あの世とこの世の関係はどうなっているのか、輪廻転生の仕組みはどうなっているか、etc…. を知るということなのですね。

知ることによって初めて、こうしたいわば洗濯機型の輪廻は勘弁!と思うようになるわけです。むしろ、自己愛が強ければ強いほど、そんな繰り返しはエネルギーの消耗以外の何ものでもない、と悟るからです。

こうした真理知識をもって、この世の個人的な課題をある程度クリアして、はじめて、「自分で主体的に緻密な計画をもって生まれてくる」という段階に入ります。

つまり、

個人的な課題解決はある程度卒業して、むしろ、もっと積極的に、神仏の心をこの地上世界に実現させるための利他・奉仕の心であえて地上に生まれてくる存在、これが本来の阿羅漢であり、大乗仏教で言うところの菩薩なのです。

そういうことを踏まえますと、

解脱を「輪廻転生からの枠組みからハズれる」という観点から捉えた四向四果の段階は実態論として問題があるように思えます。

ネオ仏法で、四向四果の段階論を使わずに、十界説を採用しているのは、そういう理由です。四向四果では、解脱の捉え方が真理スピリチュアル的観点から見て、不十分である、ということですね。

解脱は、「迷いの輪廻転生から外れて、より主体的な輪廻転生になる」というふうに、まずは捉えるべきだと思います。

そのためには、

まずこうした仕組み知ること、真理の智慧をしっかり仕入れて、あなたの人生に当てはめて考え、行動してゆくこと、これがなにより第一歩となります。

解脱や涅槃(ねはん)については、また別の観点からも説明が必要と思いますが、とりあえず、今回のトピック、”四向四果”に絞って書いてみました。

*参考記事:涅槃とは何か?わかりやすく意味を解明する– テーラワーダ仏教批判④

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