現代の仏教を論じるにあたり、テーラワーダ仏教の存在を抜きに語ることはできません。
テーラワーダ仏教とは、「上座仏教」「南伝仏教」とも言いますが、現在では、スリランカ、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアなどで広まっている仏教です。
日本では明治以降、欧米から”近代仏教学”が移植されて、今まで「あたりまえ」であった大乗仏教・日本仏教のアイデンティティが揺らぐことになりました。
いわゆる根本仏教・原始仏教と呼ばれるものを除けば、それ以外のものは後世の創作・付加が入っているとして、価値を貶められてしまったのです。
後にも述べますが、いわゆる「大乗非仏説」というやつです。
1970年代以降、テーラワーダ仏教で用いられているヴィパッサナー瞑想が精神心理学にも応用が効くということで、世界的なブームになり、テーラワーダ仏教そのものも「合理的で普遍的」であるかのように評価を上げてきました。
日本では1990年代からは、アルボムッレ・スマナサーラ長老を中心とするスリランカのテーラワーダ仏教協会が熱心に布教を初めて、認知度を高めています。
テーラワーダ仏教の方々は、自らの仏教が釈尊を直接に受け継いできた根本仏教(初期仏教/原始仏教)であると主張していますが、それは本当なのか?
本論では、文献・学問的な面と今一つは霊的な側面からもテーラワーダ仏教について検証してみたいと思います。
テーラワーダ仏教が釈尊の直説金口をそのまま引き継いでいるのか?
とりわけスリランカ系のテーラワーダ仏教の徒は「上座仏教は釈尊の直説金口を引き継いでいる根本仏教である」という主張をしますが、これは誤りです。
テーラワーダ仏教は部派仏教の一派の流れを汲むに過ぎない
釈尊没後約100年で戒律の解釈をめぐり、「根本分裂」がおきました。ここで、上座部と大衆部に分かれます。
その後、100年、200年と経つうちにさらに細かく20以上のグループに分裂していきます。これを「枝末分裂」と言います。これがいわゆる「部派仏教の時代」ですね。
南伝のテーラワーダ仏教というのは、この部派仏教の一派である「分別説部」の流れを汲みます。
この分別説部は部派仏教のなかの最大部派である「説一切有部(せついっさいうぶ)」から分裂した弱小部派に過ぎないのです。
もちろん、彼らが言うように、当時からの経蔵・律蔵・論蔵の三蔵を引き継いでいる(「保持している」ではなく、あえて「引き継いでいる」と言います)グループはテーラワーダ仏教であるのは事実です。
しかし、その三蔵が現行のかたちになったのは、紀元後5世紀のことです。
『清浄道論(しょうじょうどうろん)』の著作で知られるブッダゴーサ(仏音/ぶっとん)という学僧が、仏典を(彼が思うところの)「釈尊が実際に説いたものと、そうでないもの」に分け、前者を正統としたのですね。
5世紀といえば、釈尊の没後約800年も過ぎ、大乗仏教についてもすでに中期にさしかかっている時代です。また、その後もさまざまな「改変」が施されているようです。
*参考書籍:『お坊さんのための「仏教入門」』(正木晃著)
パーリ語は釈尊が使った言語ではない
それから、言語の問題もあります。
現在のテーラワーダ仏教で使われている三蔵の言葉はパーリ語ですが、仏陀・釈尊はパーリ語で説法していたわけではありません。
インド東部のマガダ地方の方言(古マガダ語)で説法をされていたことが、アショーカ王碑文の史跡などの比較研究で明らかになっています。
この点も、テーラワーダ仏教の方々は、「釈尊はパーリ語で説法されていた」と強弁することがあるので困ってしまうのですが。
根本仏教を完全に復元することは不可能
そもそも根本仏教を完全に復元することは文献的には不可能なのです。
欧米の学者が一時期、新約聖書を研究する方法を使って復元しようとしたことがありましたが、成功しませんでした。
仏陀・釈尊の教説が文字化されたのは、釈尊入滅後400年以上も経ってからです。確実なところでは、第4回目結集のとき、紀元前89年〜77年に経・律・論のいわゆる三蔵が文字化されたことが確認されています。
400年はかなり大きいです。
遠足などでバスの中で伝言ゲームをやって遊んだことがありますよね。一列目から最終列まで行くと、かなり話が変わってしまいます。
バスはそんなに長いものではないですし、伝言ゲームにしても数分の出来事です。それでもけっこう変わってしまうのですから、400年以上も経てば、言わずもがな、です。
実際に、歴史的に数多くの「部派仏教」に分かれていったということは、伝えられてきたお経にも違いが出てきたからですよね。
あえて、根本仏教らしきものを探るとすれば、パーリ仏典と漢訳仏典の共通部分を探るくらいが精一杯ですが、これにしても釈尊の直説であるという100%の保証はとれません。
アルボムッレ・スマナサーラ氏の『般若心経は間違い?』は間違い
アルボムッレ・スマナサーラ長老(「日本テーラワーダ仏教協会」長老)は相当な数の本を出版されおり、その仏法伝道の情熱には頭が下がる思いです。
ただ、いわば「テーラワーダ原理主義」の立場から大乗仏教やキリスト教などの他宗教を排撃してきますので、ここらへん、偏狭と言わざるを得ません。
たとえば、『般若心経は間違い?』という本にも以下のような叙述があります。
お釈迦さまが完全に説いたオリジナルの教えに立ち返ると、(「はじめに 般若心経は難しい?」より)
ブッダの教えそのままに学んでいる私たちが(「呪文には力がない」より)
といった塩梅で、立ち位置そのものがテーラワーダ原理主義になっていることが分かります。
そして上述したように、テーラワーダ仏教そのものが「お釈迦さまが完全に説いたオリジナルの教え」でも「ブッダの教えそのまま」でもありませんので、「般若心経は間違い」の根拠・前提そのものが”間違い”なんですよ。
『般若心経』については、当サイト(ネオ仏法)で、連続講義を行っておりますので、よろしければ参考になさってください。
*参考シリーズ:『般若心経』の悟りを超えて
「純粋に合理的」とは言えないテーラワーダ仏教
アルボムッレ・スマナサーラ長老は、山折哲雄氏との対談本『迷いと確信―大乗仏教からテーラワーダ仏教へ』で以下のように述べています。
テーラワーダ仏教はなんの変化もなく生き続けていて、仏教の歴史はスリランカにしても日本にしてもほぼ同じですが、北伝として伝わった大乗仏教は毎日毎日新しい形に変化しながらやっと生き延びていて、そちらには合理性が消えている。純粋に合理的に論理で生きてきたテーラワーダ仏教には変化する必要がなかった。
しかし、テーラワーダ仏教について、「なんの変化もなく生き続けていて」「変化する必要がなかった」というのは上述した通り、適切ではありません。
また、「純粋に合理的に論理で生きてきたテーラワーダ仏教」と述べていらっしゃいますが、実際には、スリランカなどでは、パリッタという呪文、呪術的行為がいまだに行われています。
日本で紹介されているテーラワーダ仏教本を読むと「純粋に合理的に論理」な印象を受けるのですが、実情はそうとも言い切れないところがあるということは知っておいたほうが良いでしょう。
大乗仏教は仏説ではない?
先に述べたように、テーラワーダ仏教であっても、紀元後5世紀に入ってから、ブッダゴーサなどによる経典編集がなされていますので、彼らが主張するような「釈尊の直説金口」そのままではないことは明らかです。
それにしても、テーラワーダ仏教からは、「大乗仏典は創作に過ぎず、仏説とは言い難い」という批判がなされています。いわゆる、「大乗非仏説論」です。
この批判は一見、インパクトのあるものでしょう。
しかし、皮肉なことに、じつはテーラワーダ仏教に内在する”理論”が大乗仏教に根拠を与えているという考え方もあるのです。
テーラワーダ仏教は、部派仏教の流れを汲みますので、三蔵(経・律・論)のうち、相対的に「論蔵」を重視する傾向があります。
論蔵とは経典の解釈書・注釈書のことです。解釈書はあくまで解釈書ですので、これはつまり「仏説」ではないですよね。
ところが、彼らは論蔵の権威を守るために、”隠没(おんもつ)”と”法性(ほっしょう)”という理論武装をしました。
それぞれの意味は、
- 隠没:実際には仏陀によって説かれていたが、口伝されずに隠れてしまった教えのこと
- 法性:理にかなっていること
です。
そして、
- 隠没:隠没した真理であっても、阿羅漢が三昧(ざんまい)によって、仏陀・釈尊の教えを掬(すく)い上げているのだ
- 法性:経典に残っていなくても、理にかなっていれば、それは仏説である
という理論武装をして、論蔵の権威を守ろうとしました。
ところが、この2つの理論は、そのまま「大乗仏教も仏説であると言える」根拠にもなりうるものです。
*参考書籍:『進化する南無阿弥陀仏』(平岡聡著)p31
そして、ネオ仏法的涅槃論の観点からも、この考えは「正しい」のです。
*参考記事:涅槃とは何か?わかりやすく意味を解明する– テーラワーダ仏教批判④
ですから、皮肉なことに、テーラワーダ仏教が自らを守るために発見した理論(そしてこれらは”真理”なのですが)が、大乗仏教の存在根拠にもなりうるわけですね。
今回の記事では、テーラワーダ仏教について厳し目の論考をほどこしていますが、私はもちろん、テーラワーダ仏教のなかにも仏陀・釈尊の真意は(全てではないにせよ)流れていることを知っています。
しかし、大乗仏教にも仏陀・釈尊の真意は脈々と受け継がれているのも、同様に真理なのです。
コメント
コメント一覧 (2件)
>gkrsnamaさま
コメントありがとうございます。
たしかに、大乗仏教やその流れを汲んでいる新宗教にも偏狭なものはありますよね。
本稿はとりあえずは、テーラワーダ仏教に絞り込んで論じたものです。
大乗仏教にもいろいろあるだろう。が、日蓮X宗に付き合わされたものとして言えば、排他性と奇蹟主義(そのベースには自宗は科学の様な真理性を持つという主張がある)はビョーキに思える。例えば創価X会は「信心には200倍の災害防除機能がある」と主張したものだ(人間革命)。もちろん客観的な統計的根拠は示せなかった。
多くの大乗仏教には教祖宗派絶対化と現世御利益主義があり、こういうビョウキ宗派と大同小異ではないのか。親鸞聖人のように、彌陀や西方浄土とは実在性が問題になるようなものでなく心を救うための依り代、したがって他宗批判禁止と割り切れば、その限りでない。