今回のトピックは、以前、マインドフルネスについて書いたことの続きです。
「マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)の効果と限界 – ①」
「マインドフルネス(ヴィパッサナー瞑想)の効果と限界 – ②「全体性の回復」」
この2篇では「効果と限界」とタイトルしておきながら、「効果」のほうにしか言及していません。続編として、「限界」を書いていこうかな、と思ってもいたのですけど。
なんというか、「限界」というのはマインドフルネスの限界というより、マインドフルネスを提唱している母体であるテーラワーダ仏教(上座部仏教)の限界と言ったほうがより本質的なんですね。
なので、稿を改めて書き進めようと思った次第です。
まあね、私が書いているトピックって、スピリチュアル内部の批評のものも結構ありますし、それで今度は上座仏教の批判ですか?と、うんざりする人もいるかもしれません。
が、批評とか批判そのものが目的ではなくて、「否定を通して、より上位の肯定に至る」という、例の弁証法的な考え方ですね。
つまり、スピリチュアル・宗教・思想・哲学…まあ、思想全般と言ってもいいですが、それらを新しい時代にバトンタッチするべく、衣装替えをきちんとしておきたいということです。
それが私の使命でもありますし、こうした「仏法・思想の洗い出し」という「中興の祖」的な仕事ができること自体が「観自在」の証明にもなるでしょう。
ここ2千数百年の歴史の中では多くの偉大な思想が説かれてはいますが、いかんせん、これだけ年数が経っていると、けっこう不純物が混じっていてもいます。
そのせいで、ある特定の思想の勉強を始めたい!という真面目な方が不純物部分に引っかかって道をそれていくのを見るのが忍びない、という思いがあります。
*そしてその「不純物」というのは、学問や文献のレベルではもはや取り除くことが不可能、というものもけっこうありますので。
これは憶測で言っているわけではなくって、実際に、たとえば今回トピックで挙げている上座仏教ですね、ここにもかなりの不純物が混じりこんでいるのが実情で。
マインドフルネスを真剣にやった結果、精神病院に行くことになってしまったとか…あるいは、本場のスリランカへ瞑想修行に行ったら先客(?)に「ここで瞑想しても人格は向上しないから」なんて釘を刺されたとか。そんな話も聞きます。
また、国家レベルでも、意外にタイとか上座仏教国って犯罪率が高かったり、少なくとも、現代的な意味ではなかなか発展していきませんよね。
もっとも、「いや、この世に輪廻してくること自体が”苦”であり、輪廻からの解脱が仏教の目的である、したがって、そもそも、この世での発展・繁栄など考えることが堕落なんだ」というのが小乗仏教側の言い分になるでしょうけども。
しかし、これらのことは私から言わせれば、明らかに「思想的なミスがある」と言わざるを得ないんです。
ともかくも、「ネオ仏法」を旗揚げしている私としては、順序として、上座・大乗の問題にケリをつけていくのが出発点だろう、ということですね。
ネオ仏法自体は、本当は狭義の「仏教」というものを超えた射程距離を構想してはいますが、とまれ、「仏法」の名を冠している以上は、小乗・大乗の問題点の洗い出しと、
新しい時代へバトンタッチしていくための仏教思想のイノベーションですね、そこから始めてみたいと思っています。
まずは、「上座仏教では悟れない理由」の”おまとめ”として、いくつか理由を挙げてみます。一応、列挙してみましたが、これらはみな関連しています。
- 「悟った」(阿羅漢など)という解釈にミスがある
- 涅槃(ねはん)が結局、何のことだか分かっていない
- 無常・無我のネガティブな側面しか見ることができていない
まだ他にも論点は挙げられますが、みな関連していますし、また、必要であればトピックを追加していきます。
しかし、今、思いつきで上記の3つを挙げてみましたが、これって結局、
「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静(しょぎょうむじょう・しょほうむが・ねはんじゃくじょう)」の三法印(さんぽういん)にもろに関わってきています。
三法印が要は「仏教であることの目印」でもありますので、これら3つとも問題あり、ということは、結局、「全部問題あります」、と言っているのと同じことになりますね、
われながら酷いと思います。が、やはり、言ったほうが後世の人のためになるのでやりますね。