仏教と倫理を巡る問題 – 有漏善と無漏善についての考察

無常・苦・無我
目次

福徳を積むことは解脱・涅槃に資さない??

テーラワーダ仏教批判の第三回目です。

最近、『大乗非仏説をこえて: 大乗仏教は何のためにあるのか』(大竹晋・著)という本を読んだのですけどね。仏教に興味がある人にとっては結構話題になっている本であるようです。

この本の趣旨を一言でいうと、

「学問的に検証してみると、大乗仏教は決して釈尊オリジナルに還元することはできない。「大乗非仏説」には対抗できない。しかし、大乗の修行者の数々の体体験談を検証すると、大乗が悟りに資することもやはり否めない。なので、大乗は歴史的釈尊にむりに接続しようとするのを諦めたほうが良いのではないか。小乗とは別の宗教であるという開き直りが必要なのではないか?」

という感じだと思います。

まあこの本については、緻密に検証しているようで、けっこう論の運びが乱暴だな、というのが私の印象なのですけど。それはまた別の問題として。

この本で取り上げている項目の中に、「あ、上座仏教の問題点の中心はココにあるな」と思える箇所がありましたので、ご紹介してみます。

上座部に伝えられている『スッタニパータ』に以下の偈(げ=詩のこと)があります。(以下の引用文はp116-117より)

わが身にとって福徳は、微塵ほどにも意味がない
福徳に意味があるという、彼らに悪魔は説くがよい。

あたかも清き白蓮が、汚水に穢されぬように、
さようにおん身は福徳と、罪悪の二に穢されず
勇者よ、足を伸ばされよ。サビヤは師へと敬礼す。

(P117)

*太文字にしたのは高田です。

そして、著者の大竹氏は以下のように解説しています。

原始仏教においては、福徳も罪悪もあくまで有漏(”煩悩あるもの”)であって、福徳をも積まず、無漏(”煩悩なきもの”)となった者のみが、決して生まれ変わらないまま、涅槃に入るのである。

(p116)

ここのところが、まさに、上座仏教の思想的ミスの中心点だと私には思われます。

ここで説明されていることを簡単に言うと、

「一般ピーポーは、福徳を積んで(布施して戒を守って)、天界へ生まれることを希みましょう。しかし、修行者にとっては、福徳も”カルマ”の一種であるので、(決して二度と生まれ変わらないという)涅槃には邪魔なものである」

という思想です。

仏語で難しい表現ですが、

  • 有漏善(うろぜん):解脱に資さない善行
  • 無漏善(むろぜん):解脱に資する善行

と分けてしまっているのですね。

これはもう差別というか…、まあ差別していますわね。要は、「オレらだけ、解脱を狙いますんで!」みたいな。

この差別感がですね、実は釈尊没後100年後あたりから始まった部派仏教時代の僧侶のあり方を規定している側面があると考えます。

そして、「これはいくらなんでもおかしいのではないか?」というのが、大乗オリジナル期の原動力になっていったのです。

ただ今回、問題にしたいのはそちらの差別感のほうではなくて、引用文にある”わが身にとって福徳は、微塵ほどにも意味がない。”という部分です。

福徳は解脱になんにも関係がない…どころか、”福徳と、罪悪の二に穢されず。”で、罪悪と同一視されていますよね。

これでは、宗教として、「倫理の基礎づけ」を放棄している状態です。倫理と仏教を切り離してしまっている。そのこと自体がバツだと思いますし、また、実際の思想内容も大いに反論の余地があります。

*有漏善については、名聞欲などの煩悩(=漏)に基づいた善は偽善であるので否定すべきである、という解釈もあります。そうした解釈であれば、もちろん私としても納得はできます。

韻文経典は釈尊オリジナルに近い思想か?

みなさんのなかで、「ちょっと仏教でも勉強してみるか」と思われて、とりあえず有名な「ブッダのことば―スッタニパータ (中村 元 岩波文庫)」を読まれた方、意外に多くいらっしゃるのではないでしょうか?

そして、読後感として、どうにも肩透かしを食ったような感覚を味わられた方もいらっしゃるのではないか(もしくは読み通せない)、と私は想像しているのですけど。

表紙には、「数多い仏教書のうちで最も古い聖典」と書かれています。そこに惹かれて、「釈尊のオリジナルに近いんだろう」ということで手にとられる方が多いのでは?と思うんですね。

この、スッタニパータは仏典の中でも最古層に属する、というのは編者である中村元教授がまさに唱えた説なんですけどね。

簡単に言えば、詩の形式・韻文なので唱えやすい→覚えやすいので、初期は釈尊の教説をこれで暗唱していたのだろう、と。

そして、このスッタニパータとかダンマパタ(法句経)などが、だんだんに散文として整えられて、後世のむずかしい経典に発達していった、という学説です。

ただこの学説には現在では疑義が呈されています。

たしかに「スッタニパータ」や「ダンマパタ」には素晴らしい警句も多いですよ。

でも、釈尊の教説の中心である、四諦八正道、無常・苦・無我、十二因縁、五蘊/六根・十二処・十八界…などがまとまったかたち出てこないので、それで、「あれ?有名な四聖諦(ししょうたい)はどこに書いてあるの?」みたいな。

これが「肩透かし」の読後感の原因ですね。

それどころか、近年では仏説と言うより、ジャイナ教や『マハーバーラタ』と共通の言い回し・表現が多い、ということで、むしろ最古層どころか、もっとも後期に「仏説」として追加されていった、という説が出てきています。

『スッタニパータ』などが仏説の最古層であるという根拠はたとえば以下の2点です。

  1. 『スッタニパータ』は韻文で書かれている。口頭伝承の時代では釈尊の教説を暗記しやすいようにまずは韻文で暗記され、それが後に散文へ整えられていった。ゆえに、韻文形式のほうが古層である。
  2. 『スッタニパータ』には他の経典よりも古形の語彙が多い。

これに対する反論は下記になります。

  1. 韻文で書かれているから古層とは限りません。仏教よりも古いバラモン教の『ウパニシャッド』などは散文で伝承されています。なので、わざわざ制約の多い韻文でまず伝承される根拠がありません。
  2. 古形の語彙が多いのはまさに「韻文」だからです。たとえば、現代短歌・俳句であっても、「なりけり」とか「我は」などの古形の表現を使いますよね。これはそうした表現が韻文に適しているからです。ゆえに、上記1と併置して考えると、これも「古層である」という根拠にはなりえません。

また、馬場紀寿著『初期仏教――ブッダの思想をたどる』では以下の研究成果が報告されています。少し長いですが引用してみましょう。

五部派で一致して、結集仏典の「法」に位置づけられる四阿含(四部)が成立した後に、「小蔵」(または「小部」「小阿含」)という集成が「法」に追加されたということは、「小蔵」に収録されている仏典がもともと結集仏典に位置づけられていなかったことを示している。実際、この集成に収録されているのは、基本的に韻文仏典であり、経蔵の「四阿含」の諸経典が用いる定型表現を用いていない。まったく異なる様式のものなのである。

以下に説明するように、韻文仏典のなかには紀元前に成立したものが含まれているが、元来、結集仏典としての権威をもたず、その外部で伝承されていたのである。

このことは、かつて中村元らの仏教学者が想定していた、韻文仏典から散文仏典(三蔵)へ発展したという単線的な図式が成り立たないことを意味する韻文仏典に三蔵の起源を見出すことには、方法論的な問題があるのである。

 *太字は高田による

 

要するに、「三蔵に後から付け加えられた「小部」のスッタニパータなどが仏典の最古層であると推測するには無理がある」と言っているわけです。

なので、話がまた逸れそうですが、上座部系の仏典を読むのであれば、釈尊の教えの骨格が具体的に説かれている「相応部経典」「増支部経典」あたりからさきに読まれたほうがよろしいかと思います。

たとえば、下記の2冊がお薦めです。

ブッダのことば パーリ仏典入門 』片山 一良 (著)
こちらは、パーリ仏典の分類どおり、「長部」「中部」「相応部」「増支部」「小部」の順番で、ベスト盤的に紹介・解説もされています。初期仏教の全景がざっと把握できます。

パーリ仏典入門

阿含経典による仏教の根本聖典』増谷 文雄 (著)
こちらは、経典の内容別に著者が再分類して紹介・解説しています。前半には、「釈尊の物語」とでも言うべきものが順に並んでいますので、初心者の方にはこちらのほうがいいかもしれません。

仏教の根本聖典

何が言いたかったかいうと、「スッタニパータに書いてあるから、真理」とは言えない、ということです。さきの引用文は明らかに異物混入しています。

「施論・戒論・生天論から四聖諦へ」が正当な順序

七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)

さて、では福徳は本当に悟り(解脱→涅槃)に資さないのか?という問題ですね。

そもそも、有名な七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)に次のように説かれています。

一切の悪をなさないこと、善を具えること、

自らの心を清めること、これが諸仏の教えである

-『長部』14「大比喩経」

「善いことをして悪いことは止めましょう、そして心を浄めましょう。これが諸々のブッダの教えです」という実に簡潔に説かれていますね。

そうであれば、福徳つまりこれは「もろもろの善」ですね、これが解脱→涅槃の妨げになるという思想は、七仏通戒偈違反ということになってしまいますよね。

ヤサ男はいかに出家したか?

「ヤサ男」ってのは、じつはオリジナルは釈迦弟子のヤサのことなんですけどね。

ヤサは釈迦教団の超初期に出家された方です。やはり、優男(やさおとこ)という言葉ができる通り、女性に取り囲まれて豪奢な暮らしをしていたのですが、

あるとき、宴会のあとをちろっと見てみたら、女たちがよだれを垂らしてだらしない格好をして寝てるのを目撃してしまった(笑)のですよ。それで、「あー嫌だ、嫌だ!」ということでブッダと出会うことになるわけです。

そのヤサに対してのブッダの説法が、次第説法(しだいせっぽう)と呼ばれるもので、その出発点が「施論・戒論・生天論(せろん・かいろん・しょうてんろん)」と言われています。

  • 施論:善いことをしましょう
  • 戒論:悪いことはつつしみましょう
  • 生天論:そうすれば、天界に生まれることができます

というじつにシンプルな説法です。

その施論・戒論・生天論を聞いて、優男のヤサは、「あー、なんと素晴らしい教えなんだろう!」と即座に理解しましたので、それを確認したブッダは、「む。素質あるな、では、次に」ということで、四聖諦(ししょうたい)を説いていくわけですよ。

まさに、次第説法、です。順に高度な教えに進んでいくから「次第説法」なんです。

ゆえに、施論戒論生天論と四諦八正道は順接に接続しているものであって、決して、

  • 施論戒論生天論→一般ピーポー向け、せいぜい天界を狙いなさい
  • 四諦八正道→修行者向け、解脱して輪廻からオサラバしましょう!

などという二分割された構図ではない!のです。

実際、仏弟子のアニルッダという人が、「誰か福徳を求める人は、私の針に糸を通しておくれ」と求めたところ、「では、私が」と、ブッダ自身が針を通してくれた、という話が仏典に載っています。

上記の大竹氏の説明によると、ココのところはむしろ「例外」で、後世、大乗仏教の影響を受けてできた仏典ではないか、と書かれていますが、

そうではないんです、こっちが釈尊の真意なんです。釈尊自身も福徳を積むのです。

結局、涅槃(ねはん)の解釈に誤りがある、ということ

それで結局、これらのことは根本的にどこに原因があるのか?というと、やはり、「涅槃(ねはん)の解釈に問題がある」と言わざるを得ないんです。

ちなみに、解脱(げだつ)と涅槃(ねはん)はどう違うのか?というのをざっくり説明しますと、

われわれが今、生きているところの現実世界、現象界ですね。まあ、「この世」です。

この世の苦しみの根源は、たどっていけば、「自我意識」にある、と釈尊は発見したのです。

「われ、あり」という思いから、「わがモノ」という思いが出てくる。そして、執着がでてくる。そして、苦しみに至る、という順序です。

ゆえに、

「あなたが、「われ」と言っているものをよく考えてごらんなさい。肉体も心も時々刻々と変化しているじゃないですか(=無常)」

そして、

「あなたも、あなたを取り巻いているさまざまな事物も、それ自体としては存在できない、相依(あいよ)って、「たまたま、いま現象としてある存在」に過ぎないですよね?それ自体として永遠不滅のものではないでしょう?(=無我)」

「無常であり、無我であるのが真実なのに、「常なるもの、我あり」という錯誤こそが苦しみの根源になっているんですよ(=苦)

という、「無常・苦・無我」という構図を説かれたわけです。

こうした、無常・苦・無我の構造を知識としてつかみ、さらに実践と瞑想によって腑に落していくと、次第に、執着から離れて、実在の視点から、俯瞰するようにこの現象(この世です)の事象を眺められるようになる、と。

この、「現象への執着から離れて、実在の視点へ移動していく」というダイナミクスが「解脱(げだつ)」なのです。

そして、解脱した結果、実在の観点から現象を俯瞰するように眺められる、という余裕の心境、これが、つまりは涅槃(ねはん)なのです。

つまりは、解脱の結果、涅槃という境地がある、ということになります。

ところが、この”実在”もしくは”実在界”というのがサッパリ分からなくなっているから、結局、「解脱も涅槃もなんのことやら??」というのが、テーラワーダ仏教のもやもやしたところになっているわけです。

簡単に言えば、そういうことです。

で、やはり、解脱→涅槃のプロセスに至るためには、やはり、福徳(善行)は必要なのです。

なぜならば、福徳=善行=利他行=愛を与えること、は、これ自体が「自我意識」を超えていく契機になるからです。

だって、「自分と彼は別個の存在」という意識(自我意識)だけでは、「え?何のために利他なんて必要なの?手間暇かけるだけ損でしょ」ってなっちゃうじゃないですか。

そうではなくて、

利他を実践してみると、なぜか幸福感が湧き出てくることがあります。この幸福感があるからこそ、世にボランティアは尽きないわけですよね。

そして、「自分」と「他者」は現象としては別々に見えるけれども、実はそうではなく、密接に関連している存在なんだ。さらに踏み込めば、一体なんだ。と。

だから、他者を利することが自分の幸福感につながってくるんだ、ということが分かってくるのです。

この利他行からくる「幸福感」「納得感」こそが、さきほどの、「自我意識」を乗り越えていく契機になるのですね。

それは、逆に言えば、利他は「無常・苦・無我」を本当の意味で理解していく道でもあり、それが解脱→涅槃への道につながっていくという構図になってるわけです。

まとめ

そういうわけで、結論としては、

  • 福徳=善行=利他が涅槃に資さないという思想は誤りである(つまり仏教は倫理の基礎づけになっている)
  • そして、その誤りの根源は、「涅槃」というターム(用語)の誤解(というか、サッパリ分かっていない)からきている
  • 福徳は、ハッキリと解脱→涅槃に資するものである

ということになります。

言葉を変えれば、有漏善→無漏善は順接に接続しているのです。

次回は、涅槃について、もっともっと踏み込んでみます。

続き→→「涅槃の解釈に誤りがある– テーラワーダ仏教批判④

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