前回の続きで、今回はシリーズ14回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦
無眼耳鼻舌身意
読み:むげんにびぜっしんい
現代語訳:目も耳も鼻も舌も身体も心も無い
前回の、「是故空中」を受けています。
「かくなるゆえに、空の悟りにおいては、目も耳も鼻も舌も身体も心も無い」ということですね。
「目も耳も…ありますけど?」と言い返したくなりますが、これは前回ご説明したとおり、
「空という高い段階の悟りから観ると、目や耳…などは仮の存在であり、無いとも言える」ということです。
眼耳鼻舌身意は合計6つありますので、総称して”六根(ろっこん)”といいます。
人間を構成要素に分解するという意味では五蘊に似ていますね。
五蘊が心作用を中心に分解しているのに対し、六根は身作用を中心に器官別に分解していきます。
書いて字のごとし…なのでだいたいおわかりかと思います。
それぞれ、
- 眼:視覚
- 耳:聴覚
- 鼻:嗅覚
- 舌:味覚
- 身:触覚
- 意:心作用
となります。
五蘊(色受想行識)とどう対応しているか?と申しますと、
- 色:眼耳鼻舌身
- 受想行識:意
と、こうなります。
六根については、おもに「認識作用」を問題にするときに使います。このことは次回以降でご説明いたします。
少し予習しておきましょうか。
感覚器官にはそれぞれ対象がありますよね。
眼(視覚)に対しては”景色”がある、といったふうに、六根についてそれぞれに6つの対象があります。これを”六境(ろっきょう)”と言います。
- 六根:認識の主体
- 六境:認識の客体
というふうに、認識論においての主体と客体(対象)を表しています。
この六根の思想もやはり存在の分析にとどまらず、「執着を断つ」ために使います。
私たちは、目で見たもの、耳で聞いたもの…(以下、同様)を対象に執着を作りますね。
その執着の元を断つわけです。「そもそも目なんて本来、無いではないか!なにを執着することがあろうか!」というふうに。
逆に言えば、本当に大切なもの、真理はこれらの感覚器官では捉えることができません。
このテーマを、キリスト教最大の教父アウグスティヌスが主著『告白録』第10巻第6章にて、美しい文章をもって展開しています。
少し長いですが、美しい詩になっていますので引用しておきます。この詩を味わいつつ、本稿を閉じましょう。
*詩の中でアウグスティヌスが呼びかけている「あなた」とは主なる神そのものです。
ところでわたしはあなたを愛するとき、
わたしは何を愛しているのでしょうか。
物体の美しい形でもなく、
過ぎ行く時間の飾りでもなく、
目に心地よい眩しい光の美しさでもなく、
花や香油や香料のかぐわしい香りでもなく、
マナや蜜のよい味でもなく、
肉の抱擁を受け喜びにひたる肢体でもありません。
わたしがわたしの神を愛するとき、
このようなものを愛しているのではありません。
(中略)
そこでは場所を捉えない光がわたしの魂を照らし、
時間に奪い取られない声が響き、
風に吹き散らされない香りが漂い、
食べても減らない糧が提供され、
飽きることを知らない抱擁があります。
わたしがわたしの神を愛するとき、
わたしが愛するのはこのようなものです。
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