前回の続きで、今回はシリーズ13回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦
是故空中 無色無受想行識
読み:ぜこくうちゅう むしきむじゅそうぎょうしき
現代語訳:それゆえに空の悟りにおいては、肉体は無い。感受作用、表象作用、意思作用、認識作用も無い。
「是故」は「かくなるゆえに」ということですので、前回の「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」という”空”の有り様の説明を受けているわけです。
「空中」は、「空の中」と直訳すると意味が取りづらいですので、「空の悟りにおいては」と意訳しました。
さて、またまたまた五蘊が出てきましたね。五蘊の説明はそろそろよろしいかと思います。
問題は、”無”でしょう。
ここまでは、「五蘊皆空」というふうに、”空”で説明されてきましたが、ここではとうとう”無い”とまでハッキリ言われてしまいます。
そうすると、「空と無はどう違うのか?」というのが問題になってきますね。
私も何冊か般若心経解説本を読んだのですが、ここのところは今ひとつスッキリしませんでした。
これはなぜかと言うと、”空”が「からっぽ」という、ほとんど「無い」と同じような解釈のされ方をされているので、”無”と区別がつきづらくなっているためであるように思われます。
ネオ仏法では、”空”を、
- 全体(実在)としては有るが、
- 個々の部分(現象)としては無常かつ無我なので実体ではない。
- 実在は現象することによって、己を自己実現してゆく。そこに実在にとっても現象にとっても幸福論が現れてくる。これが涅槃である
と解釈しています。
なので、単に「からっぽ」とか「からっぽがある」とか、そういう説明はしていません。
「無い」というのとは明らかに違います。
それでは、空と無はどう違うのか?
”無”というのは、「一段上の認識からすると仮の存在であり、”無い”とも言える」という意味に採ります。
ネオ仏法では、「存在というものも一義的なものではなくて、段階がある」、言葉を変えれば、「実在性に諸段階がある」という説を展開しております。
これについては、下記の記事で詳説しておりますので、ぜひ参考になさってください。
*参考記事:上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教の違いを乗り越えるネオ仏法
本文に戻りまして、「無色無受想行識」でしたね。
五蘊(色受想行識)とは人間存在を5つの構成要素に分解したものですが、この五蘊を”無い”と言い切っているわけです。
「無い、と言われても、現に私は今ここにあるんだから困る!」という気持ちは当然のことで、五蘊は現象としては有るのです。
これすら”無い”と言ってしまったら、私たちの存在の根拠がなくなってしまいます。ネオ仏法ではここはむしろ積極的に肯定していきます。
五蘊は現象としては”有る”が、より高い段階の真理である”空”の立場からは、仮のものである、”無い”とも言える、というのがここの「是故空中 無色無受想行識」の本当の意味です。
有るとも言えるし無いとも言える、という「有無の中道」で見ていきます。
これらは観念の遊びとして、「有るとも言えるし、無いとも言える」と解釈してるわけではありません。
般若心経が”無い”にあえてウエイトを置いているのは、存在の分析のためだけではなく、「執着を断つため」という明確な目的があるのです。
今までも何度も述べてきたことですが、人間の苦しみはすべて”自我”から出てきています。
私の収入、私の地位、私の名声、私の恋人、私の配偶者、私の子ども、私の車、…私の修行…といったふうに、”私の俺の”というところから執着が出てきて、これらが得られない苦しみ、あるいは維持できるかという不安ですね。
この「私の〇〇」というところが苦しみの根源になっているわけです。
そうであるならば、いっそ、”私”というのをなくしてはどうか?という提案なのです。
「だってそもそも私(=色受想行識)なんて無いんだから」「えっ!」
ということですね(笑)。
*参考記事:” I Me Mine(私が、私に、私の)”にうんざりだ、とハリスンさんが
さて、また一方では、(現象としては)有る、という理解も大事です。
仮のものではあるが、今、現に地上に有るのであるから、そこに意味とミッションを見いだしていくわけです。
ここで、「人生の意味とミッション」と知っていることが大事になってくるのですね。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
”有無の中道”でもって、「仮のものなんだ!」と執着を絶ちつつ、しかして、「意味とミッションを見いだしてプラスを生み出していこう!」と前進していくこと。
これは真の意味での涅槃そのものでもあります。
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