多仏思想の展開
前回の続きで、今回はシリーズ27回目です。
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三世諸仏
読み:さんぜしょぶつ
現代語訳:過去・現在・未来のもろもろの仏陀は
現代語訳としては、「過去・現在・未来」としましたが、仏教では一般に、「過去・未来・現在」の順に記述するパターンが多いです。
釈尊が菩提樹下で悟りを開いた時、「三明(さんみょう)を得た」と言われております。
三明とは、過去・未来・現在を明らかにする力・パワー。具体的には、六神通(ろくじんつう)のなかの、
- 宿命(しゅくみょう):過去世を見通すちから
- 天眼(てんげん):未来世を見通すちから
- 漏尽(ろじん):煩悩を滅尽して智慧を発揮するちから
と定義されております。
このように、過去→未来→現在 という順番で、最終的には”今ここ”の智慧を重視するのが仏教の立場であると言えるでしょう。
最初から話がそれているようですが、仏教の時間論を知る上で大事な考え方です。
”三世諸仏”は、「過去にも、現在にも、未来にも仏陀は現成(げんじょう)する」という思想をベースにしていますが、
オリジナルは、まず”過去七仏”の思想が根拠になっていると思われます。
具体的な名称はここでは触れませんが、過去から現在に至るまで、釈尊を含めたところの七仏がいる、という思想ですね。
なぜこうした思想を打ち出したかと言うと、「釈尊の説いている法は決して新奇なものではなく、永遠の真理なのだ」という証明のためです。
そのために、「過去の仏陀たちも同じ法を説いていたのだ」と展開しているわけです。
過去七仏が説いた永遠の真理、ということでは、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)が有名です。
- 諸悪莫作(しょあくまくさ) …もろもろの悪を作すこと莫く(なく)
- 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう) …もろもろの善を行い
- 自浄其意(じじょうごい) … 自ら其の意(こころ)を浄くす
- 是諸仏教(ぜしょぶつきょう) … 是がもろもろの仏の教えなり
過去七仏は、過去から現在に至るまでの7人の仏陀たち」ということで、時間軸における仏陀の出現を表明しているわけですが、
釈尊没後は、大乗仏教において、「未来世にも仏陀は出現する」という思想へと展開していきました。
有名なのは、「弥勒菩薩が56億7千万年後に仏陀として下生する」という弥勒信仰です。
まあ、具体的な”56億7千万年”という数値に拘る必要はないとは思いますが…、
こうした時間軸における多仏信仰が今回の「三世諸仏」という言葉に凝縮されているのですね。
これは要するに、般若波羅蜜多は永遠の真理なのですよ、という前フリでもあります。
さて、
時間軸における多仏信仰が可能であるならば、空間軸における多仏信仰が出てくるのも必然的な流れです。
東西南北、いや、十方世界に仏陀はいらっしゃるのだ、という信仰です。
有名なのは、西方世界の阿弥陀仏ですね。このようにして、全時空間 ー仏教用語では三世十方(さんぜじっぽう)と言いますがー に、仏陀がいらっしゃるという多仏信仰へと拡大していきます。
エキュメニカルな可能性をはらむ多仏信仰
こうした多仏信仰というのは、キリスト教やイスラム教などのセム的一神教からみると、一種の多神教と映るでしょう。
たとえば、キリスト教の教理、「真の神がイエスとしてただ一度受肉した」という論理からは、イエスに対する信仰のみが救済の根拠になっています。
しかし、今後、宇宙時代を迎えるにあたって、大宇宙の中から見れば砂粒にも等しい地球だけに、それも数十億年の歴史のなかのほんの数年、しかもパレスチナ地方のみに”神の子”が生まれたという考えはだんだんに説得力を失っていくでしょう。
そうすると、元はキリスト教の宣教に役立っていた「受肉は1回限り」という思想が、今後は逆に、キリスト教という宗教の耐用年数を縮める役目を果たすことが予想されます。
それよりも、
「神的実在は歴史の過程において、折に触れて人類に働きかけを行っている。イエス・キリストの受肉はその最高の証のひとつである」
というふうに、論理を転換していったほうが、キリスト教という宗教の救済力を担保する役割を果たしていくことになると思われます。
すでにキリスト教の姿を大きく変容させた教会一致的(エキュメニカル)精神が世界の諸宗教の関係にもますます大きな影響を及ぼすものと予想される。そこで、おそらく全世界的な宗教一致的(エキュメニカル)精神が増大しうるであろう。(『神は多くの名前をもつ』(ジョン・ヒック著)より)
つまり、仏教を含むところの他宗教においても、唯一神は歴史的な働きかけを行っており、今も現にその働きかけは続いている、という思考です。
その文脈で行けば、”三世諸仏”ですね、過去現在未来十方世界に仏陀はいらっしゃるという大乗仏教の思考様式は、むしろ先進的でさえあると思われます。
多神教の問題点、デメリットは、いつも人間中心・自我中心の発想へ傾いてしまうところにあります。
いわゆる、ご利益信仰。当サイトでいうところの”呪術スピリチュアル”です。
呪術スピリチュアルについて一概にダメだとは言いませんが、私が一定の制限をかけている理由はここにあります。
結局、自我中心の発想は真理ではありえないですし、また、究極において人間の幸福に資するものではありません。せいぜいがいっときの気休めにしかなりません。
多仏信仰がこうした呪術スピリチュアルに傾く危険性について、大乗仏教はすでに”一即多多即一”の回答を示しています。おもに華厳経の思想です。
すなわち、神的実在は一なるものであると同時に多でもありうる、という思想です。
そうすると、”現象”としての自我は否定しつつ、つまり、呪術スピリチュアルへの傾倒を防ぎつつ、かつ、神的”実在”の働きかけは、時間的にも空間的にも無限である、という解釈が成立することになります。
見出しにかかげた、「エキュメニカル(=宗教一致)な可能性をはらむ多仏信仰」はそういう意味です。
般若心経からはずいぶん離れた記述になっていますが、私は”三世諸仏”の一句からここまでの真理の守備範囲を引き出せると思っております。
そうであってこそ、夜郎自大的な偏狭な宗教の縄張り意識を打破していくことが可能になっていくと考えます。
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