前回の続きで、今回はシリーズ18回目です。
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無苦集滅道
読み:むくしゅうめつどう
現代語訳:苦集滅道(の四諦)も無い
例のごとく、”是故空中”=「かくなるゆえに”空”の悟りにおいては」を受けて、初期仏教の基本教説のひとつ、四諦(したい)を「本来、無い!」と、ぶった切っています。
”苦集滅道”(くしゅうめつどう/くじゅうめつどう)=四諦は仏教の基本中の基本の教えです。
釈尊の最初の説法を初転法輪(しょてんぽうりん)と言いますが、その時に説かれたのは、”中道”と、今回の”四諦”、そして苦集滅道の”道”に相当する”八正道”です。
四諦は四聖諦(ししょうたい)とも言います。”諦”は「真理」という意味です。
なので、四諦とは、「4つの真理」ということになります。
以下、4つを順番に見ていきますが、4つの真理は「人生の苦の克服」のために説かれていますので、
結局、四諦とは「人生の苦を超克するための4つの真理」という意味です。
それでは、四諦を順番に見ていきましょう。
苦諦(くたい)
四諦のトップは、”苦諦”です。「人生は苦しみである、という真理」です。
いきなり深刻な根本原理を突きつけられましたね。
釈尊は、「人生は喜びに満ちている!」「ワクワクが大事!」などと言うタイプの方ではなかったことが明らかです。
「どんなに巧く自己実現を成し遂げたとしても、生老病死、他の苦しみからは逃れられない」と、まずは冷静に分析します。
有名な”四苦八苦”です。
これも丁寧に見ていきましょう。
- 生:苦しみに満ちているこの世界に生まれてくる苦しみ
- 老:やがて年老いてゆく苦しみ
- 病:病気になる苦しみ
- 死:逃れられない死の苦しみ、またそれを予見する苦しみ
- 愛別離苦(あいべつりく):愛する人と別れる苦しみ
- 怨憎会苦(おんぞうえく):嫌いな人と会う苦しみ
- 求不得苦(ぐふとくく):求めても得られない苦しみ
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく):五官(感覚器官)の欲求が突き上げてくる苦しみ
と、この8つです。
8つめの「五蘊盛苦」については、「要するに五蘊(ごうん)が苦しみの根源なのだ」という解釈のほうが一般的かもしれませんが、8つ並列にならべてあることを鑑みて、今回の解釈を採ります。
最初の生老病死の4つを”四苦”、四苦と残りの4つを合わせて”八苦”。俗に”四苦八苦”と言います。
「大変で四苦八苦してます!」って慣用表現はここから来ているのですね。
集諦(じったい)
”集”=「集める」といのは、なにを集めるかと言うと、「原因を集める」ということです。
上の”苦諦”につながっていますので、ここでは、「苦しみの原因を集めた(=突き止めた)真理」という意味です。
そして、「苦しみの原因」は、「執着にある」と釈尊は喝破します。
四苦八苦はある意味において、7つめの”求不得苦”に収斂されます。
「求めても得られない苦しみ」ですね。
「〜でありたいのに、そうはならない苦しみ」です。
たとえば、「老いる苦しみ」と言っても、はじめから「老いても全然問題ない。ノープロブレム!むしろ歓迎」と心の底から思えるのであれば、苦しみではなくなります。
ところが、なかなか本心からそうは思えない。
どうしても、「老いたくない」「いつまでも若々しくありたい」「美貌を維持したい」…と思ってしまうからこそ、それが叶えられない苦しみになっています。
まさに「求めても得られない苦しみ」です。
この「〜したい」「〜したくない」と、過度に思ってしまうことが執着ですね。
滅諦(めったい)
”滅”とは「滅ぼす」「滅する」ということです。
何を滅するかと言いますと、もちろん、”苦しみ”です。
「苦しみの原因が執着にあるのであれば、執着を無くせば良い。そうすれば、苦の超克は可能であり、それは真理である」という教えです。
道諦(どうたい)
執着が苦しみの原因であるならば、どのように(=WAY)それを滅却していくのか?
WAY=方法、道です。
つまり、”道諦”とは、「執着をなくし、苦しみを超克する方法の真理」です。
そして、その道が”八正道”、8つの正しい道、というわけです。
通常の仏教書では、ここで8つを順番に解説していきます。
それはそれでもちろん間違いではないのですが、なんとなくどこかはぐらかされたような気持ちになったことのある方はいらっしゃいませんか?
はぐらかされた、というのは、「正しく〇〇する、というお説はごもっともだけど、それで執着なくなりますか?」という”はぐらかされ感”です。
そこでこの”分かりにくさ”が、「仏法は言葉ではとうてい説明できない妙なる、奥深いものなのです」ということで丸め込まれて(?)しまいます。
しかし、釈尊という方は”はぐらかし”をされるような方ではありませんでした。
真理はたしかに「腑に落とす」「体得する」ものではあるのですが、言葉で説明できないか?というと、そうではなく、知性的な意味では”言葉で説明できる”ものなのです。
その”説明”の最重要部分が抜け落ちているから分かりにくくなっているわけで、大事なところが抜け落ちているから、”末法の世”でもあるのですけどね。
ネオ仏法は、その”最重要部分の抜け落ち”を説明することができます。ある意味、「復元できるから”ネオ仏法”」なのです。
それではその”抜け落ち”のところをご説明していきます。
八正道は8つの「正しい道」を示しています。
疑問点は、なぜその「正しい道」を実践すれば執着を断ち、人生の苦を超克できるのか?今までの仏教/仏教書の解説では、いまいちピンとこないところだと思います。
「人生の苦」を超克するということは、言葉を換えれば、「死を克服する」ということ。キリスト教的に言えば、復活思想で”永生”の確信を得るということなのです。
これが仏陀の言う、「不死の門は開かれた」の本当の意味です。
それでは、「永生の確信」とは何か?
永生というからには、「この世が全てではない」と知ることです。
さらに、「来世を知る(信じる)ことによって、その逆照射によって、この世の意義を発見すること」です。
霊的な世界が本来の世界であり、この世が魂の向上のための仮の世界であることを知っていくことです。
「魂の向上のための方便の世界の出来事」という物の見方のパラダイムシフト。これによって初めて、四苦八苦を乗り越えていくことができるのです。
一般のパラダイムでは、四苦八苦とがっぷり四つに組み合っているから”執着”になり、それが苦しみの原因になってしまっている、という構図になっています。
そこで、
「四苦八苦は方便である」という、より上位の”霊的パラダイム”を取り入れることによって、苦しみを智慧に転化する契機に変えてしまうのです。
この霊的価値観へのパラダイムシフトを自己の価値観の中心に据えることが、八正道の一番めの”正見”、すなわち「正しい見解」の基礎部分なのです。
ここが現代にいたるまでの仏教/仏教学に抜け落ちているのですね。だから、苦集滅道が分かりづらくなっている。
正見以降の八正道については、次回の講義でご説明いたします。
ひるがえって、
般若心経では、「無苦集滅道」すなわち、「四諦は無い!」とぶった切っております。
これは結局、霊的世界・仏中心の世界が本来のパラダイムなので、この世の存在そのものが仮のものである、と。
ということは、この世における修行であるところの”苦集滅道”も仮のものなのだ、という思想なのですね。
しかし、仮のものであるからと言って、無視してもかまわない、ということにはなりません。
そこまで否定してしまうと、そもそも何のために娑婆世界(地上世界)が存在しているのか、その存在の意義まで否定することになってしまいます。
なので結局、
地上世界の存在意義を認め、修行効率を高めていくために四諦の行をなしていく方向が正解であり、
一方で、地上世界そのものがそもそも仮のものである、本来のものではない。ゆえに、修行も方便的なものである(無苦集滅道)という視点も忘れない、
というバランスですね。
そういう意味で、
”有苦集滅道”と”無苦集滅道”の両者を見ていくという、ここでも、”有無の中道”が大事です。
般若心経はあくまで、”無苦集滅道”という「実在側からの視点」を強調している経文なのです。
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