故知般若波羅蜜多

空 三宝印    
目次

”故(ゆえに)”は、今までの説法全体を指す

前回の続きで、今回はシリーズ30回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦

故知般若波羅蜜多

読み:こちはんにゃはらみた

現代語訳:それゆえに(シャールプトラよ)知るべきである。般若波羅蜜多(智慧の完成)は、

本シリーズの第1回目に、学問的な部分は『般若心経 テクスト・思想・文化』(渡辺章悟著)を参照にする旨をお断りしておきました。

般若心経―テクスト・思想・文化

…しかし、今までのシリーズ29回を振り返ってみますと、結局、この書籍をほとんど参照することなくアドリブで書き進めてしまいました(汗)。

なので、本シリーズに於いて、学問的なコンテクストに沿っていない部分があったとしても、決して著者の渡辺章吾氏とは無関係であることをお断りしておきます。

故知般若波羅蜜多の”故知”は、「ゆえに知るべし」ですが、「ゆえに」がいったいどこからどこまでを指しているのか、諸説あるところでしょう。

本稿では、渡辺氏の説によって、「観自在菩薩がずっとシャーリプトラへ説法していた内容全体を指す」と捉えていきます。

実際にネパール写本やチベット語訳にも、「シャーリプトラよ、[あなたは]と明記する伝承を確認することができる。(同書p196)

したがいまして、現代語訳部分にも(シャーリプトラよ)と補足を入れております。

さて、

現代語訳全体としては、「それゆえに(シャールプトラよ)知るべきである」としましたが、いったい何を知るべきなのか?は次節以降に続いていくわけですので、次回の論考で書いていきますね。

いったいどこが「般若心経の悟りを超えて」いるのか?

”故に”が「今まで説法していた内容全体を指す」という観点から、今回は本シリーズの重要な論点を振り返ってみます。

とくに、シリーズタイトルが「般若心経の悟りを超えて」としていますが、いったいどのあたりが”超えて”いるのか?という点に絞ってみます。

結論としては大きく、以下の3点が「般若心経の悟りを超えて」いる部分です。

  1. ”実在性の諸段階”の論理により、小乗仏教の修行論をも救い出している
  2. ”空の論理”のアップデート。空=無常+無我+涅槃 の解釈
  3. ”現象界創造の目的論”まで踏み込んでいる

それではそれぞれを詳しく見ていきましょう。

1. ”実在性の諸段階”の論理により、小乗仏教の修行をも救い出している

まず、”空”と”無”の関係性を説明するところから入ったのでした。

*参考記事:「般若心経」の悟りを超えて – ⑬是故空中 無色無受想行識

一般の般若心経解説本では、ここの「空と無の違い」が今ひとつスッキリしません。

比較的、親切な解説本では以下のような説明になっています。

空の原義はサンスクリット語で”シューニャ”=空っぽ、である。インドでは「空っぽがある」という変わった言い回しをする…、とか。

奥が深いような、はぐらかされているような説明です。みなさんはこれで腑に落ちますか?私はこれでは分からないです。

心理学では”アハ体験”と言いますが、文字通り、AHA!というふうに、「あ!そっか!そういうことだったんだ!」という嬉しくなるレベル。すとーん!と腑に落ちるレベル。

私は、本当に”分かった”という基準をここに置いています。

多くの解説書、あるいは思想・哲学書が難解なのは、実際は書いている本人が当該の真理について腑に落ちていないケースがほとんどなのです(もちろん読み手の方に最低限の知識と読解力を要請するところがありますが)。

話を戻しまして、実在性の諸段階論ですね。

一般的には、

実在 – 現象

というふうに二元論で解説することが多いですし、私もそれを踏まえてご説明することもあります。

ただこの二元論はあくまで便宜的なものであり、実際はこのような単純な図式ではないのですね。

実在とは「本当に存在するもの」、現象とは「実在が仮に現れたもの」という意味ですが、実際は、”実在”というものもいくつかの段階があるのです。現象についても同じです。

つまり、より上位の実在から見れば、下位の実在も現象に過ぎない、ということ。

同様に、より下位の現象から見上げると、上位の現象は”実在”と言いうる、ということです。

下記の参考記事に、「池に石ぽっちゃん!」のたとえでご説明しておりますので、ぜひご一読・再読してみてください。おそらく、このたとえでイメージがつかめるはずです。
*参考記事:ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく- ①実在性にも段階がある

実在 段階

ここでいう、より上位の実在から見れば、下位の実在も現象に過ぎないということ、つまり、仮の存在であること、”無い”とも言えること。これがまさしく、”無”の本当の意味でもあるのです。

般若心経では、釈尊が提唱した修行法や観想法をこれでもか!というくらいに、「無い!」と否定してきましたね。

しかしこれはさまざまな修行法や観想法が間違っているという意味ではなく、「”空”という、より上位の真理から見れば、地上で行うさまざまな修行法・観想法も方便に過ぎないのだ」という意味なのです。

  • 空:より上位の真理から観れば、
  • 無:仮のものであり、現象に過ぎない。方便であり、無いと言える

ということです。

なので、釈尊が提示したさまざまな修行法・観想法は要らない!というのは表面的な解釈でありまして、否むしろ、”空”というより上位の真理から眺めるからこそ、これらの修行法・観想法の意味合いと重要性がよく分かるようになるという側面が大きいのです。

それですから、結論的には、空観を保持しつつも、地上での修行論・観想法を大事にしていくという方向がベストです。

般若心経の本文ではダイレクトにはこういうことは書いていませんが、空と無の論理を演繹していくとこのような結論を引き出していくことができます。

2. ”空の論理”のアップデート。空=無常+無我+涅槃 の解釈

こちらの空の論理のアップデートについては、以下の二記事で詳述しております。

参考記事①「般若心経」の悟りを超えて – ⑧ 色不異空 空不異色
参考記事②「般若心経」の悟りを超えて – ⑨色即是空 空即是色

”空”は一般的には”無我”に近い意味で解釈されることが多いですし、実際に釈尊の時代では、それほど区別なく使用されておりました。

なので、

空=無我

の図式です。

つまり、あらゆる事象はそれ自体では存在できない。相依(あいよ)って存在しているでしょう。このように実体を欠いているさまを”無我”といい、あるいは大乗仏教では”空”と呼んでいるわけです。

”空”の場合は、ここの「相依っているところの事象全体」を指すこともあります。無我よりは若干、守備範囲が広いイメージです。

また、「この相依っている事象全体という状態こそが真理である」ということから、真理そのものを指すこともあるでしょう。

そうすると、

空はもともとは無我に近い意味合いで、どちらかというと、”無い”に近いニュアンスだったものが、時代と地域を経ていくうちに、「事象全体である」「真理そのものである」というふうに、”有る”というニュアンスに変わってきているとも言えます。

上述の「無我に近い空」は、「相依って存在しているのだから実体性を欠く」という、どちらかというと、存在論的・空間論的観点から”存在”というものを眺めています。

ところで、存在にはもうひとつ、”時間”という側面がありますよね。あらゆる存在はひとときも休まることなく変転変化していきます。仏教ではこれを”無常”と言うのでした。

”空”理解が「事象全体を指す」のであれば、時間論的側面も入っていると解釈したほうが良いでしょう。

つまり、「相依って存在している」という静止したイメージだけではなく、「相依って在りつつも、常に変転・変化していく」という動的なイメージです。

空理解に”無常”を織り込んでいくわけです。

そうすると、

空=無我+無常

という図式になりました。

無我、無常、と来れば、仏教を学んでいる人であれば、”三法印”を思い出すでしょう。

三法印とはすなわち、

  • 諸法無我
  • 諸行無常
  • 涅槃寂静

の3つです。

簡略化すれば、

  • 無我
  • 無常
  • 涅槃

となりますので、上記の、

空=無我+無常

の図式では、三法印のうち、ふたつが使用されていることになります。

そうすると、「では、涅槃はどうなのだ?」という観点があります。

いくつかの記事で書きましたが、とくに近現代の仏教理解において、”涅槃”は鬼門になっております。

というのも、無常と無我は上述の説明を読めばお分かりの通り、この世(現象界)の観点からも説明がついてしまうのですが、”涅槃”についてはどうしても、あの世(実在界)の観点が入らないと、理解ができないからです。

近現代は唯物論がずいぶんと優勢になってきましたので、”涅槃”がますます分からなくなってきているのです。

”涅槃”とは一言でいえば、

実在界の観点から現象界を眺めることによって、現象界におけるさまざまな事象の意味合いを見抜き、智慧と慈悲に生きられること。そしてその結果、得られる平安な境地

という意味なのです。ネオ仏法では涅槃をそのように定義します。釈尊も当時(約2500年前)、用語は違っても、そのような意味合いで説いていたと思います。

したがって、死んでから涅槃があるのではなく、むしろ、この身このままで涅槃に入ることができるし、むしろ修行論の観点からはそのような涅槃のほうが望ましい、ということになります。

無常であり、無我な世界のなかでそのまま翻弄されるのではなく、無常・無我を見抜くことによって執着を絶ち、むしろ智慧と慈悲に変えることによって、真実の幸福感を得る、ということです。

そう、涅槃は仏法における幸福論なのです。あるいは、目的論であるとも言えます。

なぜと言うに、涅槃という観点があるからこそ、なぜ世界は無常であり無我であるのか、そのように創られているのか、という神的実在の意図を見抜いていくことができるからです。

涅槃という幸福論のために、無常・無我なる現象界、空なる現象界が創造されたのです。

涅槃 意味

ここにおいて涅槃を空理解に織り込んでいくことが可能ですし、むしろ、涅槃は空理解のための最後の1ピースであるとも言えます。

そうすると、図式としては、

空=無我+無常+涅槃

となりますね。この図式において、空理解が完成します。

「無常で無我だからむなしい…」といったニヒリズムを克服することが可能になってきます。

弟子のレベルでここまで空理解を突き詰められたことはいまだかつてありません。これがまさしく、「空の論理のアップデート」なのです。

3.”現象界創造の目的論”まで踏み込んでいる

ここのところは、じつはすでに述べております。2.の解説の中に、下記の文章がありますね。

涅槃という幸福論のために、無常・無我なる現象界、空なる現象界が創造されたのです。

従来の仏教哲学では、「なぜ世界は無常であり無我であるのか?」という目的論まで踏み込めておりませんでした。

「とにかく、世界はこのようであるのだ」という受動的な無常・無我理解で止まっておりました。

ネオ仏法では、もっとダイナミックに、「世界はなぜこのようにあるのか?」という、より能動的、合目的的なレベルまで踏み込んでいきます

なぜ、無常かつ無我な世界が在るのか?

この問いは、「なぜ、世界は現象しているのか?」という問いと同義です。現象しているからこそ、無常であり無我な在り様が現出しているからです。

それでは、なぜ世界は現象しているのか?

現象の大本は実在にあります。

  • 実在:実際に存在するもの
  • 現象:実在が形(象)として現れたもの

だからです。

ということは、”根本の問い”は、「実在はなぜ現象しているのか?」ということになります。これが最大限に突き詰めた問いです。

実在というものは、ときに”創造神”と呼ばれたり、久遠実成の仏陀(法身仏)と呼ばれたり、道(タオ)と呼ばれたりしています。ヘーゲルは”絶対精神”と呼びました。

各々の宗教や哲学、道徳論などでさまざまな名称で呼ばれています。

もう一度、問います。「実在はなぜ現象しているのか?

わざわざ現象しなくとも、実在のままであれば良いように思われます。

宗教的にいえば、神はなぜ世界を創造したのか?という問いと同じです。イメージとしてはこちらが分かりやすいので、こちらの問いを手がかりに考えていきましょう。

まず、神が全能者であるならば、神は”全体”でなければなりません。

ある領域は神であり、その他の領域は神でない、とすると、神に限定がかかることになり、全能性が損なわれます。

したがって、神は(あるいは、真理は)全体であるのです。私たち一人ひとり、万象万物を自らの内に含むところの全体です。これが第一テーゼです。

つぎに、

神があらゆる善の根本であるならば、かならず”発展”というものを要請するはずです。善が拡大していことはより大きな善であるからです。ゆえに、「神は発展を要請する」。これが第二テーゼです。

まとめてみましょう。

  • 第一テーゼ:神は(真理は)全体である
  • 第二テーゼ:神は(真理は)発展を要請する

しかしこの第一テーゼと第二テーゼはともに真理であるはずなのに一見、矛盾をきたしているように思われます。

つまり、”発展する”というのは、「発展の余地がある」、ということでもあり、そうすると、神の外部に”余地”があることになってしまいます。

そうすると、「第一テーゼ:神は(真理は)全体である」とぶつかってしまいますね。神は(真理)は全体ではなくなってしまう。

この矛盾を解決する方向はたった一つです。

それは、「神は(真理は)全体でありつつ、自己拡大をなしている」という在り方です。

ここのところが三段論法になっています。

まとめてみます。

  • 第一テーゼ:神は(真理は)全体である
  • 第二テーゼ:神は(真理は)発展を要請する
  • 第三テーゼ:したがって、神は(真理は)自己拡大をする

では、神は(真理は)いかにして自己拡大を成すのでしょうか?

神が(真理が)”お一人様”で静かに、スタティックな状態にとどまっていたら、発展というのは在りえません。

そこで、神は(真理は)自らの内部に現象を起こすことを発明されたのです。

現象を起こすことによって、各々の現象の間に一時的な葛藤・矛盾が引き起こされます。

現象Aと現象Bに矛盾が生じた場合、これはときに”悪”というかたちをとることさえありますが、それはあくまでも一時的な有り様に過ぎず、一定の時間が経過すると、相互の矛盾が昇華され、新たな付加価値が産出されることになります。

弁証法の論理ですね。これは、仏教的には中道論です。

自らの内部に新たな付加価値が生じたということは、神自らも(その付加価値分だけ)発展しているのと同じなのです、ここが理解のキモになっています。

たとえば、私たちの身体の内部で細胞分裂が起きて、仮にですよ、たった一つだけ細胞が増えたとします。

これは、細胞にとってもプラス1ですが、私たちの身体全体にとってもプラス1になるでしょう?

これと同じことです。お分かりでしょうか?

まとめてみましょう。

神は(真理は)全体であり、かつ、発展を望まれた。その自己実現のために自己内部に現象を引き起こした(=世界の創造)。無常であり無我な世界が現出した。

無常・無我(=現象)から新たな智慧と慈悲という付加価値が創出され、そこには”涅槃”というポジティブな幸福論が付随する。

この発展に付随する幸福論が世界創造の目的であるのです。

この結論から般若の智慧を再検証してみると、般若心経に書かれている”不増不減”というのも空理解のひとつの段階に過ぎないことが分かります。

上述したとおり、新たな付加価値(智慧×慈悲)の産出がなされているという創造の目的論まで踏み込むと、エネルギー総量は増えていることが分かります。

ここのところが物質世界に投影されると、インフレーション宇宙論になるのかもしれません。

今回の論考は、ネオ仏法思想の中核に当たる部分の再確認でもあります。

すこし難しいかもしれませんが、哲学的な思考という意味では、現段階(西暦2021年)の地球文明における最高の達成のひとつであると自負しております。

ぜひ繰り返し熟読玩味されることをお勧めいたします。

続き→→「般若心経」の悟りを超えて – ㉛是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦

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