メメント・モリと対義語カルペ・ディエムの意味 – 「死は救済」は最悪の哲学

メメント・モリ

メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」、「死を忘るなかれ」という意味の警句。(ウィキペディア

メメント・モリ、すなわち、「死を想う」ということは、なんだか弱気なイメージがありますが、そうではなく、この人生を価値あるものとして生き抜いていく上で必須の哲学である、とネオ仏法では考えています。

目次

メメント・モリ、「死を記憶せよ」の由来

メメント・モリ(Memento mori)のラテン語を分解すると、

  • Memento:記憶せよ(英語:Remember)
  • Mori:死(英語:Death)

となりますので、これは本当に文字通り、「死を記憶せよ」「死を想え」「死を忘れるな」という意味です。

メメント・モリの対義語、”カルペ・ディエム”

意味的には、メメント・モリの対義語と言えるのが”カルペ・ディエム(carpe diem)”です。

カルペ・ディエムは、直接的には、「その日を摘め」という意味のラテン語です。英語では、”seize the day”というふうに訳されています。

文字通り、「その日をつかめ!」ということですね。

カルペ・ディエムは、紀元前1世紀、古代ローマ時代の詩人ホラティウスの詩にも謳われています。

該当の句は「Carpe diem quam minimum credula postero」で、和訳では「明日のことはできるだけ信用せず、その日の花を摘め」となります。

そうすると一見、メメント・モリの対極にある言葉のようにも思えます。

  • メメント・モリ:死を意識する
  • カルペ・ディエム:今を生きる

というふうに。

しかし、「死(終わり)があるからこそ、今を(一日一日を)大切に生きる」というふうに、両者は意味的に補完し合っていると考えることも可能でしょう。

そのように考えるとメメント・モリとカルペ・ディエムは一概に対義語であるとは言えない、と主張することも可能です。

古代ローマにおけるメメント・モリ

古代ローマでは将軍が戦勝後の凱旋パレードを行うとき、「今日は良くても、明日はどうなるか分からない」と気を引き締めるために、従者に”Memento mori”と囁かせていたそうなのですね。

凱旋

古代ローマ時代の用法としては、今ひとつ、(明日はどうなるかわからないから)「今を楽しめ」という意味でも使われたようです。

当時、「メメント・モリ」の趣旨は carpe diem(今を楽しめ)ということで、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスでもあったのです。

キリスト教におけるメメント・モリ

その後、キリスト教においては、神の国と対極にあるところの地の国、すなわち現世のむなしさ、儚さを思い起こさせるための言葉として、メメント・モリが使われるようになりました。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。(マタイによる福音書6章33節)

神の国は永遠です。一方、この世は「死によって過ぎ去っていく」有限で儚いものです。

過ぎ去っていくもののためにではなく、永遠の価値に生きることを推奨するために、メメント・モリ- 死を思え、と常に自らに言い聞かせることが大事、というわけなのですね。

メメント・モリの用例

14世紀中葉のヨーロッパではペスト(黒死病)が大猛威をふるい、人口が半分に減ったとも言われています。まさに、”死”が身近になった時代と言われるでしょう。

こうした時代背景もあって、メメント・モリ(死を忘れるな)を背景とした絵画作品が数多く生まれることにもなりました。

墓標に『死の舞踏』

キリスト教的文脈におけるメメント・モリとして、キリスト教美術ではトランジと言われる墓標に『死の舞踏』などのテーマがさかんに描かれていました。

死の舞踏

死神が金持ちと貧乏人を等しく連れ去っている図になっています。まさしく、「現世のむなしさ」を表しています。

静物画ヴァニタス

また、バロック期の静物画の一ジャンルであるヴァニタス。これは「人生のむなしさを表す寓意」として、死すべき定めの隠喩としての骸骨や時計などがさかんに描かれていたようです。

ヴァニタス

ポップカルチャーにおけるメメント・モリ

キリスト教とは離れますが、ポップカルチャーにおいても、さまざまなかたちで”メメント・モリ”は使われています。

  • 花 -Mémento-Mori-」 – Mr.Childrenの曲。
  • 「Memento Mori」 – 映画「メメント」の原作となった、ジョナサン・ノーラン作の小説。
  • 『機動戦士ガンダム00』に登場する架空兵器の名称。
  • ゲームアプリ、モンストの木の闘神「メメント・モリ」

メメント・モリ:つねに死を想うことを「強さ」につなげた偉人たち

釈尊の生老病死の克服

そもそも仏陀・釈尊は、「生老病死」を始めとする四苦八苦を超克する道を求めて出家されたのでした。

「生→老→病→死」という順になっている通り、重点は最後の「死」に置かれています。

老いる苦しみも病いの苦しみも、それ自体が苦しいという側面はあるものの、やはり、「死へのおそれ」という感情面での苦しみですね、ここが一番大きいと思われます。

このように、生老病死を見つめつつ、「苦しみの原因は自我にあり、自我意識に基づいた執着を断つべし」と説いた釈尊の仏教を「ペシミスティック(悲観的)な宗教」と捉える向きもありますが、そうかんたんではありません。

宗教学者のエリアーデはここらへんをさすがに見抜いていまして、

一切皆苦」という命題は、ペシミズムどころか、救済が可能であることについての確信に裏打ちされており、ここにむしろ、オプティミズムを見るべき
*ペシミズム=悲観主義、オプティミズム=楽観主義

と述べています。

要は、「オプティミズムの準備としてのペシミズム」とも言えるでしょう。

実際は、死を意識することなしには本当の意味での不死は見つかりません。

不死を願うのは人間の本能ですが(自殺ですらその反転形です)、死を見つめることのない不死は、たとえば、会社の永続や死後の名声、子孫の繁栄への執着など…、

間違った不死といいますか、これは虚しい不死ですよね。これらはみないつかは過ぎ去っていくものです。まさに釈尊が説かれる通り、「諸行無常」なのです。

ふつうの人は、死を見て見ぬ振りしています。しかし、死は私たちを待っている100%の現実であります。

なので、死をはっきりと見つめるのは、これは弱さではなくて、強さであり、釈尊のように死から出発して思想を構築できるのは、人類最高の強者の証とも言えるでしょう。

ハイデガーの「死の先駆」

ハイデガーの実存主義哲学も、「”死への先駆”によって現存在は、”非本来性”(日常性)から”本来性”へと移行する」ということで、

哲学用語に慣れてないと何やら難解・深遠ですが、要は、

「死を今のうちに意識しましょうよ(=死への先駆)。そうすれば、人間(=現存在)いつかは死ぬという限界を意識することになるので、これが逆に、無限の価値を考えるきっかけになります。それが、”善く生きる”といった人間本来のあり方(=本来性)に目覚めることに繋がっていくのです」

と言う…、解いてみると身もふたもないことを言っています。

存在と時間

もし、死を意識することで本来性を回復し、その回復こそが本当の”自己価値”であるならばどうでしょう?

それがコロナ禍であれ、非本来性のまま一生を終わってしまうよりは、本来性を獲得する契機になったということで、魂のトータルで見れば善へと転化していくことになります。

追い込まれないとなかなか本質に気づかない。夏休み終わりを意識しないと宿題をやらない。

まあ、そういうことですよね。

マーラーの葬送行進曲

芸術家で言えば、長大な交響曲で知られるグスタフ・マーラーもそうです。

彼も長らく、「死を過度に恐れ…」と音楽評論に書かれ続けてきましたが、最近は、「そうではないのではないか?」という研究も出てきました。

前島良雄氏の研究により、従来の常識をくつがえすマーラー像が提示されています。

*『マーラー 輝かしい日々と断ち切られた未来』(前島良雄 著)

マーラー 輝かしい日々と断ち切られた未来

マーラーほど「葬送行進曲」や死のテーマを交響曲に取り入れた作曲は見当たりませんし、それも相まって「過度に死を恐れるマーラー像」ができていたのですが、

しかし、マーラーのように、世界をまるごと把握しようとする音楽家にとって、致死率100%の実存である私たちの人生を考えるとき、「死」は世界と世界の背後にある世界(?)を把握するに当たり、避けることのできないテーマであったのでしょう。

マーラーはとてもネオ仏法に相性の良いアーティストであると考えていますので、別稿で取りあげるつもりです。相当に霊格の高い方だと思いますよ。

*参考記事:グスタフ・マーラー楽曲の特徴と新解釈 ― 強靭な精神力と宇宙の鳴動

スティーブ・ジョブズのスピーチ

スティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学における卒業スピーチ(2,005年)で、「死を忘れるな」という、まさに”メメント・モリ”なスピーチを行っています。

スティーブ・ジョブズ

17歳のとき次のような一節を読んだ。

「毎日を人生最後の日であるかのように生きていれば、いつか必ずその通りになる」。

それは印象に残り、それ以来33年間毎朝鏡を見て自問している。

「今日が人生最後の日だとしたら、私は今日する予定のことをしたいと思うだろうか」。

そしてその答えがいいえであることが長く続きすぎるたびに、私は何かを変える必要を悟った。

自分が間もなく死ぬことを覚えておくことは人生の重要な決断を助けてくれる私が知る限り最も重要な道具だ。

なぜならほとんどすべてのこと、つまり、他の人からの期待や、あらゆる種類のプライド、恥や失敗に対するいろいろな恐れ、これらのことは死を前にしては消えてしまい、真に重要なことだけが残るからだ。

いつかは死ぬということを覚えておくことは落とし穴を避けるための私が知る最善の方法である。

何かを失うと考えてしまう落とし穴を。あなたはもう丸裸だ。自分の心のままに行動しない理由はない。

「死は救済」はメメント・モリ的にみても最悪の哲学と言える

上述したように、メメント・モリ「死を忘れるな」は、あくまで現世の儚さを知り、真実の世界観へ目覚めるためのきっかけになるもの、あるいは、リマインダーのための警句と言えます。

「死は救済」というと一見、似たようなことを言っているようですが、これはメメント・モリとはほぼ間逆な方向へいきます。

メメント・モリは最終的には「死を意識することによって、現世を最大限に実りあるものになしていく」という哲学です。

ところが、「死は救済」というのは、これは単なるペシミズムでしょう。ほとんど「自殺肯定」とも言える内容です。

要は、「この世、現世があまりに辛いので、死ぬことによって”無”になることが救済になる」ということでしょう。

こうしたペシミスティックな思いで死を選んだとしたら、その人を来世待っているものは救済であるどころか、さらに苦しい救いがたい世界であるのです。

この点については、下記の記事をご参照ください。

*参考記事:自殺をスピリチュアル観点から検証する – 死んでも幸福にはなれない

『七つの習慣』の第2の習慣は、”メメント・モリ”である

世界的ベストセラー、『7つの習慣』(スティーブン・R・コヴィー 著)の第2の習慣も「終わりを思い描くことから始める」です。これもいわば、”メメント・モリ – 死を忘れるなかれ”でしょう。

完訳 7つの習慣

終わりとはむろん自身の死のことです。

第2の習慣では、自らの葬儀の場面を思い浮かべ、「参列者にどう思われたいか?言われたいか?」を想像していきます。

それによって自身の「人生のテーマ」を発見していくというプログラムになっています。

『七つの習慣』のはじめの3つは、

  • 第1の習慣:主体性を発揮する重要事項を優先する
  • 第2の習慣:終わりを思い描くことから始める
  • 第3の習慣:重要事項を優先する

です。

これら3つは適当な順番で並んでいるのではなく、論理的かつきわめて戦略的な順序で並べられています。

すなわち、

第1の習慣で自らの現在位置と未来への推進力を手に入れ、第2の習慣で目的地を手に入れ、第3の習慣で、現在位置→目的地にいたる時間配分を考えていく、という順序になっています。

第1の習慣〜第3の習慣までが、仏教で言うところの”自利”に相当しているでしょう。

第4の習慣以降で自利利他の段階に入っています。

なので、まずは、第1〜第3の習慣を文字通り、習慣化することが肝要です。

私自身も、数ある自己啓発書のなかで、この『7つの習慣』ほど得るものが多い書物を知りません。

第2の習慣は、目的地をゲットするという、人生戦略にとって絶対に外せない習慣です。

そういう意味でも、やはり、メメント・モリ=死を忘れるな、ということがいかに大切か、分かることと思います。

『7つの習慣』については、過去の記事でも何度か取り上げた記憶がありますが、いずれシリーズ化して採り上げてみるつもりです。

もっとも『7つの習慣』では、現象界を超えた人生戦略までは行きません。

もし、人間の生命が現象界に限定されるものでなく、実在界へ続いていくものであったら…?

これは、「自らがどのような魂になりたいのか?自問自答していく」という超長期戦略を採らざるを得ません

少なくとも、「現世で成功したけれど、来世では地獄でした…」となっては、これは失敗した人生戦略になってしまいます。

  • メメント・モリ(死を忘れるな)によって真実の世界観と自らのミッションを獲得すること
  • 死をみつめたさきに、「私たちの人生は肉体の死で終わるものではなく、輪廻のなかでかならず報われていく」という超オプティミスト(楽観主義者)になることが肝要

というのが今回の結論です。

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