釈尊の説いた無我は、「我がない」「魂がない」ということか?

我は有るか、無いか?

正見が点検できているか

今回のテーマ、「無我」については、仏教において最大に誤解されている概念のひとつだろうと思います。それは、現代でもそうですし、過去の仏教史でも幾度も出てきた問題です。

つまり、

「釈尊は無我を説いたのだから、死後の存在や魂を否定した」という考え方です。

こういう考え方をする人はですね、

「無我」を追求した結果、「霊魂はない」という結論に達したというよりも、「霊魂を信じられない/信じたくないから、無霊魂に結びつくような無我解釈に飛びついた」という順序なんだろうな、と思います。

ここにある態度は、まず「自分の価値観が、同時代の先入観・偏見から自由になっているか?いったん白紙に戻せているかどうか?」という点検ですね、

つまり、八正道の出発点である「正見(しょうけん)」の点検が不十分である、ということになると思います。

そして、高僧や高名な学者であっても、その「初歩」に引っかかっているケースが多いわけです。

自灯明/犀の角のようにただ独り歩め

まず、出発点として、「我が有るのか?無いのか?」という論点を考えてみます。

「無我」という言葉を字句通り読めば、「我がない」というふうに読めます。

なので、単純に、「我がない」という方向に行くのも分からないでもないです。

しかし、我(われ)=自己がまったくナッシングであるのであれば、修行する主体もナッシングということなので、仏道修行そのものが成り立ちません。

釈尊の遺言(涅槃経)では、自灯明・法灯明(じとうみょう・ほうとうみょう)が説かれています。これは、釈尊亡き後は「自らを拠り所とせよ」「法を拠り所とせよ」という意味です。

無我=自己がナッシングであるならば、「自らを拠り所とせよ」などと説くはずがありません。

「犀の角のようにただ独り歩め」は、スッタニパータという経典で有名な言葉ですね。美しい言葉です。

これも、無我=自己がナッシングであるのであれば、「ただ独り」ということは成り立たなくなります。

有無の中道で考える

なので、無我についても、「我が無いと書いてあるのだから、無いものはないんじゃないか?」と単純に考えるのではなく、ここでもやはり中道で考える必要があります。

全てにおいて中道で考えること。これが仏教解釈のオーソドックス(正統)です。

すでに、「ネオ仏法は、小乗も大乗もはるかに超えてゆく」シリーズで、「実在と現象」について考察してきました。

私たち一人ひとりは「一個の現象」ですので、時間において無常。存在において無我です。

肉体も精神も刻々と変化していきますし(無常)、肉体ひとつとってみても食べ物や空気など他の存在と相依って成り立っています(無我)ので、「実体としての存在ではない」というふうには言えるわけですね。

釈尊が無我を強調した最大の理由は、「自我意識に基づいた執着が苦しみの原因であるので、それを断ち切るため」です。

この場合の「自我」は、実在の一部であるという意識から離れ、かつ、他の現象とも繋がっているという意識からも離れてしまった我、ということになります。

独立した自我意識においては、かならず「存在の根源的な不安」が引き起こされます。

その「存在の根源的な不安」を一時的に緩和しようと、人は「リア充自慢」などで、他者への相対的優位を必死で求めていくわけですが、それは根本的な解決にならない。

なので釈尊は、苦しみの根本を断ち切るためには、自己というものを「全体(実在)や他者(現象)と独立した自我と捉えるべきではない」という根本的な存在論を説いたのです。

そしてそれは存在論であるとともに、強力な実践論でもあります。

このように、

  • 実在の一部を担い、一定の個性・アイデンティティを持っている存在という意味では「有る」
  • しかし、実在や他者から切り離された独立した実体ではありえないという意味では「無い」

という「有無の中道」ですね、これが正統の解釈だと思います。

「五蘊の仮和合(ごうんのけわごう)」についてはどう考えるか?

無我を唯物論に結びつける説のひとつに「五蘊の仮和合」というのがあります。これも仏教書によく出てきます。

五蘊というのは、色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)の5つで、人間の構成要素を分解したものです。

  • 色…肉体
  • 受…感受作用
  • 想…表象作用
  • 行…意思作用
  • 識…認識作用

この5つの要素が「仮に和合している」存在が人間なので、和合がなくなれば(=死ねば)雲散霧消する、それが無我であるという考えですね。

しかし、「仮に和合している」という意味では、今この瞬間もキッチリ和合しているわけじゃないです。

時々刻々と肉体も、心・精神の内容も変化していますよね。

なので、「五蘊の仮和合」もあくまで、「現象としての我は実体ではない」という執着を断つための実践的な教え、と捉えるべきです。

魂は有るか?無いか?

「毒矢のたとえ/無記」は根拠にならない

仏教書を読むと、「釈尊は死後の存在や形而上学的な論議を避けた」ということで、

  • 毒矢のたとえ
  • 無記(むき)

を根拠に挙げる著者が多いのです。

「毒矢のたとえ」というのは、

ある時、マールンキャプッタという人が釈尊に「死後も生命は存続するか?」「宇宙は無限か有限か?」…などを尋ねたところ、

釈尊は、「毒矢が刺さっているのに治療以外のことを考えていたら、毒が回ってしまう。まず矢を抜かなければいけない」というたとえ話をしました。

これは、「宇宙がどうした〜」とかの話は今、問題にすべきではない。そんなことを考えているうちに人生は終わってしまう。それよりも、「自己の生死の問題の解決」がまず先決である、ということなのですけどね。

これをもって、「釈尊は形而上の問題に関わらなかった」と主張している仏教書が多いのです。

しかしこれは、「釈尊があの世や霊魂を否定した」ということではなく、マールンキャプッタという人の特性を考えて対機説法をした、と捉えるべきです。

無記(むき)というのは、「記さず」ということですが、これも、「形而上学的な論議について沈黙をした」という意味です。

この無記というのも「毒矢のたとえ」と同様で、やはり対機説法的に「無記」を貫いたこともある、という意味に解釈すべきです。

インドでは今も昔も「あの世や霊魂、輪廻」などはだいたいみな認めていたわけですよ。

そうである以上、霊界や霊魂についてあまり強調する説法は行う必要はない、ということなんです。ただの趣味的論議に陥ってしまうからです。

現代のスピリチュアルでも、いくらでもこういう問題があります。

「アトランティスがどうした」とか「23次元がどうこう」などと考えるよりも、まずは、自らの実存の問題として生死を乗り越えなければいけない、ということですね。

対機説法というのは、「個人の機根に合わせて説法する」というのが普通の解釈ですが、「時代や地域性に合わせて説法する」というのも大きくは対機説法の一環なんです。

施論戒論生天論がウソになってしまう

そもそも、釈尊の次第説法として、まずは「施論戒論生天論」がありました。

  • 施論(せろん)…施しをして、
  • 戒論(かいろん)…戒めを守れば、
  • 生天論…天界に生まれることができる

というシンプルな説法です。

あの世や魂を否定してしまったら、「生天論」がまるっきり嘘になってしまいますよね。

いくら方便とはいえ、「不妄語戒」を説いてる仏教が基本説法でウソを説く、という解釈はあり得ないと考えるべきです。
*不妄語(ふもうご):「ウソをつくなかれ」という戒め。五戒の一つ。

断常の中道で考える

なので、ここでもやはり中道で考えましょう。「断常の中道」です。

肉体の死を迎えると魂がなくなる、というのは明らかに断見、断滅論です。

「釈尊はいかなる意味でも死後の永遠不滅の魂などは認めなかった、常見を否定した」などと書いてある仏教書が数多くあります。

しかしここに言葉の微妙なすり替えがあります。「永遠不滅の魂」というところです。

魂が死後も存続しても、それは「変わらない」ということとイコールなのでしょうか?なぜ、断言できるのか?

魂も「現象」として、死後も変化していくわけです。無常でかつ無我です。

なので、死後の魂があるからイコール常見、という等式は明らかに論理的なミスがあります。
*参考記事:生まれてくる意味と目的って何だろう? – ①「断常の中道」

ゆえに、結論としては、

魂があっても無我説とは抵触しない。むしろ、魂を否定すると断見に陥ってしまうので、それは仏法とは言えない」ということです。

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