依般若波羅蜜多故

前回の続きで、今回はシリーズ22回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦

依般若波羅蜜多故

読み:えはんにゃはらみたこ

現代語訳:般若の智慧に依るがゆえに

前回の「菩提薩埵(ぼだいさった)」が主語になっています。

「菩薩は般若の智慧に依るがゆえに〜」ということですね。「般若の智慧」は”空の悟り”と言い換えても良いでしょう。

”空の悟り”は、「真実在から観れば、一切は現象に過ぎない」という認識です。

さて、前回に引き続き、「菩薩とは何か?どういう存在か?」というお話をいたします。

前回は、「声聞をクリアしてこその利他(菩薩行)である」というお話をいたしました。

しかしこの「声聞をクリアして」という部分にもいくつか落とし穴があるように思えます。

*できたら、過去記事「天台智顗(てんだいちぎ)の十界 ー スピリチュアルな出世の段階一覧」を参照しながらお読みください。

代表的なものを2つ挙げますと、

  1. 利他行を行わない言い訳に”声聞”を使う
  2. 自己実現に夢中になり過ぎてしまう

と、この2点かな、と思います。

  1. については、やはりバランスの問題です。

イエス・キリストも聖書の中で、

盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう(マタイ15:14)

と述べています。

したがって、やはり順序としては、”目開き”になってから人を導くべき、ということになりますが、これが「行動しない」言い訳として使われがちなのですね。

「どれだけ目が見えているのか?まだまだ足りないのか?」を追求したら永遠に近い時間がかかってしまいます。

どこまで行っても、「いや、まだまだ視えるようになるはずだ。まだ足りない。人を導くのはそれからだ」というふうに、いつまでも行動に移さないパターンに入ってしまいます。

そうでなく、

おおまかに”自分づくり”を決意して実践に移しているのであれば、その過程で得た智慧を他者に分かち合う段階に入ったほうが良いと思うのです。

ほんの少しでも目が開いているのであれば、その視える範囲で持って人を導くことはできるはずですね。

なので、「完全に視えるように」ということばかり考えていると、いつまでたっても愛の実践ができない人になってしまいます。

これは、「菩薩の準備段階の声聞」という考えから言っても、「何の準備にもなっていない」ということになってしまいますよね。

そういうわけで、やはり、「声聞かつ菩薩行」「小乗かつ大乗」の中道で行動していくのが正解なのです。

次に、2.「自己実現に夢中になり過ぎてしまう」についてです。

これは声聞の手前の”天界”にむしろ多い傾向ではあります。

天界は自己実現の世界でありますので、それはむろん悪いことではないのですけどね。

ビジネスでも、たとえば「営業の成績を継続的に上げ続ける」というのは自己実現でありますが、長期視点で営業成績を上げていくためには、やっぱり「顧客視点に立つ」という利他的発想が必要です。

なので、自己実現を突き詰めるという天界の段階において、じつは「利他が有効である」という悟りが必要であり、その意味で、天界においてすでに「菩薩の準備段階」が始まっていると言えます。

それでは、天界と声聞とではどう違うか?ということになりますが。

結局、「天界の自己実現の真理含有率を上げていくのが声聞」と定義してもよろしいかと思います。

そのためには、そもそもの「真理の学び」が必要なので、勉強のために一人の時間を大切にしたり、また、瞑想などを行うわけですね。

しかし声聞の落とし穴は先も言いましたがまさにここにありまして。

勉強していると、「勉強しているだけで立派」といふうに思ってしまい、利他からどんどん遠ざかってしまうという陥穽が待ち構えています。

ここのところがまさに、小乗へのアンチテーゼとして大乗運動が起きてきた理由でもあります。

「声聞の落とし穴」は以上述べたとおりなのですが、さて、では、「菩薩はどうなのか?」と申しますと、

”天界 – 声聞”が基礎になっているのは、順序としては間違いはないわけです。

つまり、

天界的な自己実現能力と、声聞的な真理知識の両者を併(あわ)せ持ち、かつ、利他行に重心をシフトしているのが菩薩である

ということになります。

キリスト教的に”天使”と言ってもいいですけどね。

「利他行に重心をシフトしている」ということはどういうことであるか?と言いますと、

自己実現能力は持ち合わせていながら(つまり、自分の専門領域において”仕事ができる”ということ)、中心的な関心事が利他にある、ということなんです。

これは逆に言えば、「自分のことにはほとんど執われていない」ということになります。

他者や世の中のため、後世のために何を贈り物とするか、どれだけの貢献をなすことができるか、貢献の質を上げることができないか、ということが関心の中心にあり、

自分が他者からどう見えているか?自分がどれだけ自己実現しているか?についてはほとんど関心がないのです。

簡単に言えば、「菩薩は自分のことを考えている時間が少ない」ということです。

なので、一日を振り返って(一週間、一ヶ月、一年でも良いですが)、「自分のこと」「自分の自己実現のこと」で一杯いっぱいであれば、それはやはり、まだまだ菩薩の境地には至っていない、ということです。

ましてや、その”自分ごと”が、「他者を羨む思い」や「世の中や環境への不満」でいっぱいであるならば、これは菩薩どころか、地獄領域へ踏み込んでないかどうか?という問題になってしまっています。

このように考えていくと、「実力菩薩」というのはけっこう大変だな、ということがお分かりだと思います。

そして、

”自分ごと”から離れていくために、じつは「空の悟り」が必要なのですね、ここで般若心経に戻るわけです。

すなわち、

「一切皆空」「一切は現象に過ぎず、”無い”といえる」「自己も現象に過ぎない」と悟れるからこそ、”自分ごと”からテイクオフしていくことができる、という構造になっています。

逆に言えば、

自己と他者を結ぶ縁起すなわち愛こそが実在、という悟り、認識です。

だから利他へ関心をシフトしていくことができる。

今回は、菩薩の心境と行動原理、そしてそのベースになっている空(くう)の悟り、ですね。

菩薩論についてはまだ語り足りないところがありますが、また別の機会にお話していきたいと思います。

続き→→「般若心経」の悟りを超えて –㉓心無罣礙

 

 

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