前回の続きで、今回はシリーズ11回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦
舍利子 是諸法空相
読み:しゃりし ぜしょほうくうそう
現代語訳:シャーリプトラよ、このようにあらゆる存在は空なる相(すがた)であるのだ
舍利子は、サンスクリット語読みで「シャーリプトラ」、「智慧第一」と呼ばれる釈尊の一番弟子でしたね。
「般若心経」および大乗仏典におけるシャーリプトラの位置づけについては、第7回めで詳しく論じましたが、今回はまた別の角度からもお話していくことになりそうです。
さて、
諸法空相(しょほうくうそう)という、また難しげな言葉が出てきました。
「法」という単語は仏教ではかなりの頻度で出てきます。
そして、「法」という言葉自体がさまざまな意味で使われていますので、ますます分かりづらくなっているのですが、
「法」は大きくは、
- 根本原理(教え)
- 存在
この2つの意味だけ押さえておけばだいたい理解できるようになります。
「仏法」というのは、「仏陀の説く根本原理=教え」という意味です。
インドではもともと、日本人が考えるような「宗教」という概念が希薄です。
「私は、〇〇宗に属しています」という言い方はせずに、そのかわりに、「私は、〇〇の法を信奉しています」という言い方をするのですね。
「私は仏法を信じています」というのは、「私は仏陀の説く根本原理を信奉しています」ということになります。
「根本原理」に従って、物事が「在る」と理解しますので、結局、根本原理=存在、という理解の方向へ行っているわけです。
「諸法空相」の「法」は、後者の「存在」の意味だと理解していきましょう。
「諸法空相」すなわち、「もろもろの存在は空なる相(すがた)であるのだ」ということです。
それでは、「空なる相」とはなにか?
「空」は一般的には、「実体ではない、本当の存在ではない」と理解されていることは何度か申し上げました。
そうすると、「諸法空相」とは、「もろもろの存在は、実体ではないものが様々な相(すがた)をとっているのだ」ということになります。
ここで前回のお話の後半に残しておいた疑問にお答えしておきます。
なぜ般若心経はしつこく”空性”にこだわるのか?その歴史的経緯は?という疑問でしたね。
実は、このことは大乗仏教がいかにして成立したか?成立する必然性があったのか?と深い関わりがあるのです。
釈尊の入滅後、仏陀の教団は根本分裂を経て、枝末分裂(しまつぶんれつ)へ、さまざまな教派に分かれていきました。
こうした様々な教派が覇を競っている時代を「部派仏教」の時代と言います。
この部派仏教の中で最大勢力を誇っていたのが、「説一切有部(せついっさいうぐ)」という学派です。
詳しい説明はここでは省きますが、説一切有部は「一切が有ると説く」という字の並びから何となく想像がつきそうですよね。
説一切有部は存在の構成要素を分類して(五位七十五法といいます)、それぞれは過去・未来・現在を通じて「有る」と説いたのでした。
*これを「三世実有法体恒有(さんぜじつうほったいごうう)」と言います
この説では、「この世の存在の構成要素の組み合わせで様々な精神や物体が出来ている」ということですので、これは結局唯物論になってしまいます。
学問的には、「説一切有部は最大部派のひとつで、これこれこういう思想なのでした…」と、他の部派と並べて解説すれば済むかもしれません。
しかし、真理スピリチュアル的にはやはり「仏陀の目から見てどうであるのか?」という価値判断をしていかなければなりません。
そして、価値判断的には、やはり唯物論はバツ(=悪)という判定になってしまいます。
結局、唯物論は刹那主義かニヒリズムのどちらかにたどり着いていきますし、そもそも真理ではありません。
なので、部派仏教の中でも特にこの「説一切有部」とどうしても思想的に対決しなければならなかった、という事情がありました。
そこで、「一切は有る」に対して、「一切は実体ではない」という意味を込めた「空(くう)」の概念をぶつけていったわけです。
こういう「思想的対決」の経緯があります。
また、説一切有部は「上座部(じょうざぶ)」という部派の一派です。
上座部は現在の、別名、南伝仏教。大乗仏教から「小乗仏教」と呼ばれている宗派へ至っています。
最近(2020/10/08現在)では、「上座仏教」と呼ばれることのほうが多いようです。
上座部は長老派とも呼ばれていまして、舎利子(シャーリプトラ)は最高の長老として最も尊敬されていたのでした。
大乗仏典の多くで、そして般若心経でも、シャーリプトラを「格下」扱いで登場させているのは、上座部(長老派)に対するあてつけの意味もあります。
般若心経では、観自在菩薩が舎利子(シャーリプトラ)に「舎利子よ」と説法するスタイルをとっていますね。
これも、「菩薩の悟りに比べたら、智慧第一と呼ばれている最大の長老も敵わないんですよ」というアピールがあるわけですね。
まあ…当時はそういうカウンターパンチが必要という判断で繰り出していたのですが、やはり、舎利子(シャーリプトラ)に失礼ではあったと思います。
やはり、舎利子(シャーリプトラ)は釈尊の十大弟子の筆頭であり、偉大な方であるのは間違いありません。
シリーズ9回目では、「結局、空(くう)というのは三法印のことなのだ」と主張しております。
空=諸行無常+諸法無我+涅槃寂静
の理解で良いのです。
三法印というのは、仏法の中心中の中心ですので、「釈尊の時代に、誰がこの教えを一番理解できていたか?」と問えば、「それは<智慧第一>の舎利子(シャーリプトラ)でしょう」という答えが順当でしょう。
つまり、用語と時代を違えているだけで、本来的な「空」の真意の理解が一番深いのは舎利子(シャーリプトラ)であったはずですね。
大乗仏教運動は宗教改革、一種の革命でありますが、革命というのはつねに「原点に帰ろう」という復古運動の側面を持っています。
ルターの聖書主義しかり、明治維新の王政復古しかり、です。
今回は、般若心経の本文からは外れたようですが、「こういう経緯があった」ということで、トータルな理解の足しにしていただければと思います。
続き→→→「般若心経」の悟りを超えて – ⑫不生不滅 不垢不浄 不増不減
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