前回の続きで、今回はシリーズ20回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦
以無所得故
読み:いむしょとくこ
現代語訳:得るものがないので、
「以無所得故」は、漢字の通り直訳すれば、「得るところがないゆえをもって」となります。
このままでは翻訳がこなれていないので、「得るものがないので」とあっさりめに現代語訳しておきました。
ここのところは前回の”無智亦無得”、「智慧も無ければ、また(新たに)得ることも無い」を受けていると考えて良いと思います。
つまり、八正道の実践の結果、正智(しょうち)を得る、ということについて、般若の智慧・空の悟りから言えば、「本来、無いと言える」とぶった切りを入れているわけですね。
なぜそのようにぶった切れるかと言うと、智慧というのは本来、究極の実在(久遠実成の仏陀)に属しているものですから、イチ現象である我々が八正道の修行をして「正智を得た」と思っても、
それは新たに得たというよりも、「本来、あったものを発見したに過ぎない」「ゆえに、究極の目から見れば、とくに何か付け加えられているわけではないのだ」という論理です。
これはかなり奥深いものの見方です。
般若心経および般若経典類というのは、このように、「”究極の空の悟り”から照らすと物事はどう在るか?」ということを徹底的に追求した経典なのです。
そして結論的には、(現代的に言うと)「一切は現象に過ぎない、本来、無いのだ」とぶった切りを入れていくわけです。
そしてこのようにぶった切るからこそ、「執着を離れていくことができる」という構造になっているわけですね。
般若心経ではさらに、上座仏教(小乗仏教)で肝要とされている基本教義(十八界、十二因縁、四諦八正道)まで「本来、無い」と言い切ってしまっています。
釈尊が初転法輪から修正説き続けた”四諦八正道”まで否定してしてしまうのはどうなのか?という見方はもちろんあります。
現代上座仏教のアルボムッレ・スマナサーラ氏の般若心経解説本を読むと、般若心経に対してほとんどキレまくっているという印象です。
それはそうですよね。上座仏教が大切に思っている教義・人物(シャーリプトラ)がつぎつぎにコケにされているように感じられたとしても当然でしょう。
この点について、ネオ仏法ではどう考えるか?と言いますと、これはここ数回の記事で申し上げているように、”有無の中道”で観ていくのが正解、と思っています。
つまり、
- 釈尊が説いた基本教説、十八界・十二因縁・四諦八正道の修行は大事であるという”有”の見方
- それら基本教義ですら、方便に過ぎない。実際は真理がさまざまに”現象”として流転しているに過ぎない、という”無”の見方(これが般若心経の立場です)
この2つの”有”と”無”の双方を観ていく、大事にしていくということです。有無の中道です。
あとはこの”有無の中道”のバランスの問題があります。
中道だからといって、それぞれの見方にかける時間を半分半分にすればよいか?というと、そういうわけでもありません。
かける時間の問題ではなく、あくまで、「物の見方の中道」を求めているわけです。
なので、もし”有”の見方が強すぎた場合、経典読誦の折りにはむしろ”無”の見方に重心をおいておくほうがバランス上得策ということになります。
私たちはこの世で肉体を持っている以上、どうしても自我意識に基づいた執着に執われる傾向があります。
執着の前提になっているのはやはり、過剰な”有る”という意識であることは間違いありません。
そういうわけで、「肉体を持っているハンデ」を考慮に入れると、やはり、「無である、本来なし」という”無”の見方に重心を置いたほうが、結果的に”有無の中道”に近づいていくことになります。
したがって、般若心経の本文に書かれているように、繰り返し、「無である、本来は無いのだ!」と自分に言い聞かせるくらいが丁度いい、ということになりますね。
人間は魂修行を始めたらはじめたで、今度はその”修行”そのものに執着を覚え、苦しみを作ることがあります。
そうした”修行への執着”からも離れ、バランスの良い取り組みに戻すためには、ときには、「四諦すらも本来は無いのだ!」という心の余裕を持つことはやはり有効です。
ここの”有無の中道”には、実はまだこれよりもさらに奥の深い見方が存在します。
ここを提示できるからこそ、「「般若心経」の悟りを超えて」というタイトルをつけているわけです。
次回に続きます。
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