前回の続きで、今回はシリーズ16回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→「般若心経」の悟りを超えて -①
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦
無無明亦無無明尽
読み:むむみょうやくむむみょうじん
現代語訳:無明がないので、(したがって)無明を尽くすこともない
8個しか漢字がないのに、半数が”無”です。
暗号めいているようで、また、じーっと見ていると、(古い世代の方はお分かりかと思いますが)なにやらインベーダーっぽく見えますね。
ここのところは、”十二因縁(じゅうにいんねん)”という仏教の基本教説を「無いのだ!」と、ぶった切っているところです。
十二因縁とはなにか?と申しますと、
「なにゆえに、人生に”生老病死”があるのか?苦しみがあるのか?その生起するする順を12パーツに分けてご説明しますよ」
という教説です。
別名、十二支縁起(じゅうにしえんぎ)とも呼ばれています。
今回の、”無無明亦無無明尽”だけでも暗号みたいなのに、さらに12個も漢字が…と思うとうんざりしそうですが、
「あなたの苦しみがどうやって生じているのか?12パーツに分けて順にご説明しますよ」と言われれば、「それじゃ聞いてみようかな?」となりませんか?
今から12パーツ並べますが、「やっぱり漢字はうざい」という方は、現代語訳のところだけ繋げて読んでみてください。
また、12パーツをおおまかに、「過去世・現世・未来世」に分類しておきます。
【過去世】1-3
-
無明(むみょう)
智慧のない状態があって、
-
行(ぎょう)
それに基づいた行為(カルマ)があって、
*”カルマ”はもともと、「行い」の意。 -
識(しき)
個性が決定する。それが、生まれ変わりの意識・主体になる。
【現世】4-10 -
名色(みょうしき)
(そして生まれ変わって)胎児になり、
-
六処(ろくしょ)
感覚器官ができてくる(眼・耳・鼻・舌・身・意)。
-
触(そく)
感覚器官が外界を感知するようになって、
-
受(じゅ)
次第に感受性がハッキリしてきて、
-
愛(あい)
好悪がハッキリしてくる。
-
取(しゅ)
そして、「あれが好き!」「あれが嫌い!」という執着が生まれて、
-
有(う)
それが心のクセ・傾向(カルマ)になる。現世での個性が確定する。それが次の生まれ変わりの主体になる。
【未来世】11-12 -
生(しょう)
また生まれることになり(再び、迷いの輪廻の始まり)、
-
老死(ろうし)
老いて死ぬことになる。
と、こうした12パーツの構成になっております。
現代語訳のところを繋げてみれば論理的であり、けっこう、分かりやすいでしょう?
このように、因果(原因と結果)が三世(過去世・現世・未来世)にわたって連なっているさまを”三世両重因果(さんぜりょうじゅういんが)”と言います。
*”識”については、一般には「現世」に入れますが、ネオ仏法では少し解釈を変えて「過去世」に分類しています。
十二因縁(十二支縁起)については、まだまだ他の解釈もありますが、今回採用した「胎生学的解釈」と呼ばれているものが一番論理的にスッキリ通ると思います。
これ以外の説は読んでいても、「んん〜!???」となるものがほとんどで。
なぜそうなるかというと、やっぱり「輪廻、魂を認めたくない」という思考から十二因縁を解釈しようとしているのが原因です。
そして、難解になってしまうのを、
「難しいでしょう?分からないでしょう?まあ、悟りというものは奥が深く、かつ、言葉では説明できないものなんですよ」と開き直るのですが、
実際は、「解説している本人もわかっていないだけ」というケースがほとんどなのですね。
上記のように、
無明があるから、次の”行”が出てくる、そして、その次の”識”が出来て…(省略)…”生””老死”があることになる
というふうに、順番に観察することを”順観(じゅんかん)”と言います。
十二因縁については、過去の記事でも紹介していますので、もっと深く勉強してみたい方は、そちらを参照してみてください。
参考記事:十二因縁(十二支縁起)と業(カルマ)
この12パーツをもとに考えてみますと、結局、(苦しみの)輪廻の根本は、1.無明にあることが分かります。
…ということは、無明をなくしてしまえば、残りの11パーツも消すことができる、ということになりますよね?
そういうわけで、初期仏教以来、仏教の修行の中心は、「無明を滅ぼすこと」、逆に言えば、「智慧の獲得」に主眼が置かれているわけです。
ここのところ、
無明がなければ、次の”行”もない。なので、その次の”識”もない…(省略)…”生””老死”もない
というふうに、「始めの”無明”さえなくせば、残りの11パーツはなくなりますよね」という物の見方を”逆観(ぎゃくかん)”と言います。
今回の般若心経の文では、そこをさらにラディカルに(?)
「いやー、そもそも”無明”なんて無い!んですから。だから、無明をなくす(=尽くす)」ことも必要ないってことですよ」
と、マウンティングして論を展開しているわけです。
これがまさに、冒頭のインベーダー、無無明亦無無明尽 の訳文となっております。
- 無無明…”無明”なんて無い
- 亦無無明尽…したがって、無明をなくす(=尽くす)ことも無いのだ
ということですね。
さて、
意味と解説はこの通りなのですが、ネオ仏法としてはここの部分について、もう一言、二言、一席ぶちたいところではあります。
その点につきましては、次回のお楽しみ(?)です。
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