遠離一切顛倒夢想

前回の続きで、今回はシリーズ25回目です。
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遠離一切顛倒夢想

読み:おんりいっさいてんどうむそう

現代語訳:一切の間違ったものの見方、迷いから遠く離れ、

漢字8文字ですが、4+4ということでリズム的には流れが良いです。

”遠離一切顛倒夢想”を分解して意味を探ってみます。

  • 遠離:遠く離れている
  • 一切:いっさいの
  • 顛倒:物事を逆さまに見ること
  • 夢想:迷い

これらをまとめて意訳して、「一切の間違ったものの見方、迷いから遠く離れ、」としてみました。

「間違ったものの見方」を仏教用語では”悪見(あっけん)”と言います。これは文字通り、八正道の一番めの”正見”と対置されるものですね。

「迷い」というのは仏教ではさまざまな種類を挙げています。

上の”悪見”と”さまざまな迷い”をまとめて、”六大煩悩(ろくだいぼんのう)”と言い表します。一つずつ挙げてみましょう。

貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)・慢(まん)・疑(ぎ)・悪見(あっけん)の6つです。それぞれの意味は、

  1. 貪…貪(むさぼ)りの心
  2. 瞋…怒りの心
  3. 痴…愚かな心
  4. 慢…慢心
  5. 疑…(特に仏法を)疑う心
  6. 悪見…間違った見解

とこうなります。

始めの3つ、貪・瞋・痴を”心の三毒”と言うこともあります。勝間和代さんなども、よく、「心の三毒を追放しよう!」と仰っていますね。

勝間和代さんが心の三毒という場合、貪瞋痴の”痴”を「愚痴」と捉えていらっしゃるようです。(個人的には)その捉え方でも良いと思いますし、また心境をチェックするにもやりやすいでしょう。

「愚かな心」というと、ちょっと茫漠としていて、「いったいどこが愚かなのか?」「愚かであればそもそも愚かであることに気づかないのでは?」なんて疑問も出てきそうですね。

そこで今回は、まず、”心の三毒”について、ちょっと別の角度から解説してみます。

貪・瞋・痴は3つ並列されていますが、むしろ、

「痴=愚かさ=(仏法に)無智であること、をベースにして貪と瞋が出てくる」と整理すると分かりやすいです。

つまり、愚かであること(無智であること)がベースになって、次の2種類の煩悩を引き起こすという理解です。

  • 貪…貪りの心:相手から取り込もうとする心
  • 瞋…怒りの心:相手を排撃しようとする心

というふうに整理します。

そうすると、貪と瞋では悪エネルギーの方向が真逆であることが分かります。

あなたをAとし、相手をBとしましょうか。

  • 貪:A←B
  • 瞋・A→B

と、こういう真逆な悪エネルギーの流れになっています。

この2つはともに、「自尊心を相手に依存している」という点で共通していることが分かります。

自我が脆(もろ)いからこそ、「相手がもっとこうしてくれたらいいのに!(貪)」あるいは「あいつのせいでこうなった!(瞋)」という思いが出てきます。

あるいは、もっと単純に、

  • 貪…相手が好きすぎてどうにもならない
  • 瞋…相手が嫌いすぎてどうにもならない

という理解でもいいです。

こちらの理解でもやはり、「自分の価値は相手によって左右されている」という”他人軸”がベースになっていることが分かります。

自存(じそん)ではなくて依存(いそん)の状態です。

そうすると、以下の図式になります。

       貪:相手から取り込む心
      ↗
 痴(他人軸) 
      ↘
       瞋:相手を排撃する心

と、このように整理すると分かりやすくなってくるでしょう?

”痴”が悪感情のベースになっているということは、逆に言えば、悪感情を解消する根本の薬は、「智慧を獲得すること」ということになります。

この場合の智慧は世間的な知恵ではなくて、もっと根源的な智慧です。

たとえば、「心のなかで思っていることが実はあなたの価値、ひいては、あなたそのものなのだ」という真理があります。

この智慧に照らしてみると、貪(相手から取り込もうとする心)・瞋(相手を排撃しようとする心)という心の在り方そのものが、「自分の価値を下げている」という事実に気づくことができます。

貪と瞋の状態になっているときは、「相手からもっとこうしてもらえば自分の価値が上がる」「相手を攻撃すれば自分の価値を保てる」という、いわば、”錯誤の幸福感”が根源にあります。

ところが、その思いが真実に適っていないがゆえに、ますます自分の価値を下げ、不幸感覚が増していくという悪循環に陥ることになります。

ちなみに、”痴”を「他人軸」と書きましたが、では、智慧の状態は「自分軸」なのか?というと、それも真理に適っていません。

自分軸というのも、「我あり」という自我の強化の方向へ行きます。そもそも、自分というのは”軸”にできるほど頼りになるものなのでしょうか?

智慧の立場は、他人軸でもなく自分軸でもなく、永遠不滅の実体である真理を軸にすること、つまり、”絶対軸”とでもいうべきものです。

さて、般若心経のコンテクストに戻してみましょうか。

さきの、”錯誤の幸福感”にしても、「”私”という実体(=本当に存在するもの)がある」という価値観から、「私のもの、私の自尊心……」という迷いが出てきます。

そこで、般若心経では、”空(くう)”という物の見方、空観(くうがん)ですね、

「一切は現象に過ぎず、あなたが執着している対象なんて、実は”無い!”」とぶった切っているわけです。

あなた自身についても、”五蘊皆空”、つまり、「あなたの肉体も精神作用も現象に過ぎないのだ」というふうに、自分に対する執着(我執)を断ち切りに行っているのです。

この空観も根源的な智慧です。

空観によって、”痴”(=愚かさ)を打ち砕き、”遠離一切顛倒夢想”の状態へ。つまり、「一切の間違ったものの見方、迷いから遠く離れ」ていくことができる。

こういう構造になっているのですね。

続き→→「般若心経」の悟りを超えて – ㉖究竟涅槃

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