六波羅蜜多(ろくはらみた)は菩薩の修行
前回(観自在菩薩 – 観音菩薩と観自在菩薩の違いとは?)の続きで、今回はシリーズ第4回目です。
*シリーズ初回からお読みになりたい方はこちらから→摩訶般若 – 仏教的グノーシスの経典としての『般若経』
*『般若心経』全文はこちらから→祈り/読誦
行深般若波羅蜜多時
読み:ぎょうじんはんにゃはらみったじ
現代語訳:深遠なる”智慧の完成”を行じている時に
「般若波羅蜜多」というのは、シリーズ第2回でも少し触れましたね。
大乗仏教では仏になるための修行方法として「六波波羅蜜多(ろくはらみた)」を重視しています。*前回申し上げたとおり、「六波羅蜜」でも良いです
仏になりたい、という願をおこして修行しているのが菩薩です。
原始仏教・小乗仏教では、八正道の内省が修行の中心であったと言っても良いかと思いますが、八正道はどちらかというと、自分自身をいかに高めていくか?というプログラムになっておりまして、
「利他」という行為の積極性は、少なくともストレートなかたちでは八正道からは出てこないように思えます。解釈によって、利他を引っ張り出すことは無論、可能ですけどね。
*参考記事:八正道に学ぶ仏教の神秘性および合理性
*八正道については、のちほど出てきますので、そのときにもう一度詳しく触れます。
なので、「自分だけ救われるというのは仏陀の意思に反しているのではないか?」というふうに、大乗仏教では小乗仏教へのアンチテーゼとして、修行論としては「六波羅蜜多の実践」のほうを強く押し出してきたのが歴史的経緯です。
六波羅蜜多は内省的な内容もありますが、八正道よりはずっと利他の実践に重きが置かれています。
六波羅蜜多は、布施波羅蜜多(ふせはらみた)、持戒波羅蜜多 (じかいはらみた)、忍辱波羅蜜多 (にんにくはらみた)、精進波羅蜜多 (しょうじんはらみた)、禅定波羅蜜多 (ぜんじょうはらみた)、般若波羅蜜多 (はんにゃはらみた)の6つです。
名称と内容を整理しておきましょう。
- 布施波羅蜜多 – 施しの完成
- 持戒波羅蜜多 – 戒めの完成
- 忍辱波羅蜜多 – 耐え忍びの完成
- 精進波羅蜜多- 努力の完成
- 禅定波羅蜜多 – 禅定の完成
- 般若波羅蜜多 – 智慧の完成
まず、1番目に、「布施波羅蜜多=施しの完成」が来ているのがポイントです。
布施とは現代風に言えば、「主体的な愛の実践」ということになります。
愛といっても、「カレが私を愛してくれるか?」という「受け身の愛」ではなくて、「”私が”他者・社会・世界・神仏に対して愛を与えることができるか?」というほうの愛、主体的な愛です。
キリスト教的に言えば、アガペー(カリタス)の愛にあたります。
同じく”愛”という字を使っていますが、
- 自分が他者(隣人・社会・共同体・神)を愛するか:自分→他者ベクトル
- 自分が他者(隣人・社会・共同体・神)から愛されるか:他者→自分ベクトル
というふうに、エネルギーの流れが真逆になっています。
仏教で言う、”布施”というのは、やはりこの自分→他者ベクトルのほうですね、「人が自分になにをしてくれるか?」ではなくて、「自分は他人になにをしてあげられるか?」という主体的な意思です。
この「布施波羅蜜多」が六波羅蜜多のトップに来ているのがまさに、大乗仏教らしいところで、「般若波羅蜜多」は六波羅蜜多の最後に置かれていますが、
これは、布施(主体的な愛)の実践からまずは始まり、途中のたとえば、忍辱波羅蜜多(耐え忍びの完成)などを経て、最後の般若の智慧に至る、というこの順序です。
ネオ仏法では、智慧の獲得と慈悲の実践を宇宙の二大原理として捉えていますが、六波羅蜜多に当てはめると、
- 布施波羅蜜多:慈悲の実践
- 般若波羅蜜多:智慧の獲得
というふうに、それぞれ、六波羅蜜多の最初と最後に置かれています。
智慧と慈悲はどちらが先か?は、「ニワトリと卵のどちらが先か?」と同じで、一概には言えないのですが、大乗仏教では、順序として、慈悲の実践⇢智慧の獲得という流れをとると理解しても良いでしょう。
このように解釈してこそ、たとえば持戒波羅蜜多(戒めの完成)も八正道の正業の内省とはまたちがったアスペクトが視えてきます。
八正道の正業では、おもに五戒を点検していきますが、五戒では「〇〇をしてはならない」という禁止条項になっていますよね。
なので、内省も「〇〇をしなかったか?」という防御型のものにどうしてもなってしまいがちです。
ところが、六波羅蜜多の、持戒波羅蜜多では、順序として、布施波羅蜜多を前提としている。すなわち、「主体的な愛の実践」を経た上での持戒ということになりますので、五戒よりはずっと積極的な戒が必要になってきます。
すなわち、
「私は〇〇をしたか?」という積極的な戒の内容が加わってくることになります。
この、「私は〇〇をしなかったか?」と「私は〇〇をしたか?」というのは、戒律の分類としては、前者が止持戒(しじかい)・後者が作持戒(さじかい)にあたる、と解説したこともあります。
*参考記事:五戒、十善戒とは? – 仏教の戒律を現代生活に応用するコツ
般若の智慧は前提なのか結果なのか?
上述したように、六波羅蜜多の6つの項目は実践の順序を示している、という考え方がありますが、今ひとつの考え方として、「般若波羅蜜多が他の5つの波羅蜜多を支えている」という解釈もあります。
どちらの説も魅力的ですが、私はこの2つを止揚した考え方を採ります。
まず、
布施波羅蜜多→他の4つの波羅蜜多→般若波羅蜜多
という順序でとりあえずは考えます。
さらに、その上で、「六波羅蜜多は循環しつつ成長する」という方向へ持っていきます。
すなわち、
布施波羅蜜多→他の4つの波羅蜜多→般若波羅蜜多→布施波羅蜜多→他の4つの波羅蜜多→般若波羅蜜多→布施波羅蜜多……以下、同様
というふうに、循環しつつスパイラル状に般若の智慧が深まっていく、という考え方ですね。
どうしてこのように考えるかと申しますと、「完成」という言葉の内容をやはり再吟味してみたいと思うのです。
私たちは「完成」というと、とかく、「これでお仕舞い!」みたいな静止した状態をイメージしますよね。
しかし、真理における「完成」に静止した状態、「これ以上はない」という状態がありえるのか?というふうに問い直してみます。
じつはこの問い直し自体が、本シリーズのタイトルになっております「般若心経の悟りを超える」契機になってゆくのです。
このことはまた別の機会に詳述いたします。
本記事では、
「完成とは、静止した状態ではなく、むしろ繰り返しくりかえし向上していくダイナミクスそのものを指すのだ」
とまずは再定義しておきたいと思います。
悟りというものが、「悟っていない – ,悟った」という二分法ではなく、認識力が絶えず向上していくその過程(ダイナミクス)のことを指している、とどこかで書きましたが、それと同じ発想です。
ネオ仏法では、真理というものをいつもダイナミクスにおいて、動的に捉えます。
”行”は瞑想なのか?
上記に関連しまして、「行深般若波羅蜜多時」の「行」について、です。
私が今まで読んできた般若心経解説本では、多くが「行とは瞑想のこと」と書かれていたと記憶しています。
仏教の修行は、伝統的には、三学(さんがく)と言いまして、戒・定・慧(かい・じょう・え)の3つを挙げます。
「仏教の修行っていったいなんですか?」と聞かれたら、「それは、三学です。戒・定・慧の3つです」と即答できるようにしておきましょう。
この三学を見てみると、「定」のつぎに「慧」がきていますよね。
これは、「禅定(瞑想)の結果、智慧が現れる」ということですので、上述した解釈。すなわち、「行は瞑想のこと」というのも、もちろん正解ではあると思います。
しかしもっと踏み込んで考えると、
三学のはじめは、「戒」になっています。
そして、戒と言ってもより実践的・積極的な作持戒(さじかい)を含めて考えていったほうが、より大乗の精神には似つかわしいですね。
自分で「〇〇をなしていこう!」という戒を決めたのであれば、当然、つぎにその実践行為、すなわち、「行」がくるはずです。
そのように、三学の基本精神に大乗の精神をミックスして考慮すると、ここの「行深般若波羅蜜多」の「行」も、瞑想に限定するのはもったいない。
むしろ、六波羅蜜多の残り5つの項目、布施・持戒・忍辱・精進・禅定を循環的に実践して、次第に般若の智慧(般若波羅蜜多)を高めていく姿勢。ダイナミクス的実践行のこと、と捉えたほうが良いと私は思います。
もちろん、最終的な「行」の力点は、果実であるところの「般若波羅蜜多」にあることは間違いないでしょう。
なので、「行深般若波羅蜜多」、「深遠なる般若の智慧を行じているときに」となるわけですね。
日々の経典読誦を、自身の認識力向上(=悟り)に活かしていくという観点からも、「行」は瞑想にとどまらず、六波羅蜜全体の、循環的な実践行と捉えたほうが、得るものが大きくなると思いますね。
コメント