仏教の戒律(五戒・十善戒)を現代の生活に応用するポイント

戒律

戒と律は違う

仏教の戒律については、本来は、戒(シーラ)と律(ヴィナヤ)とを区別しています。

戒は修行のためのガイドライン(罰則はなし)で、律は出家教団内での秩序維持のための細目(罰則あり)です。

今回は、戒について、その現代的適用も考慮しつつ考えてみます。

五戒とは

戒は出家・在家を問わず、仏教に帰依したときに与えられるもので、テーマに挙げた五戒は釈尊の時代からあったものですね。五戒の内容は、下記のとおりです。

五戒

  • 不殺生(ふせっしょう) – 殺してはならない
  • 不偸盗(ふちゅうとう) – 盗んではならない
  • 不邪婬(ふじゃいん) – 犯してはならない
  • 不妄語(ふもうご) – 嘘をついてはいけない
  • 不飲酒(ふおんじゅ) – 酒を飲んではいけない。

先進国に住んでいる現代人がこれを読んでまず思うことは、五戒はほとんど法律の問題、あるいは基礎的な倫理・道徳で片付く問題ではないか、ということでしょうね。

法律ということでは、不殺生・不偸盗が刑法の適用範囲ですし、不邪淫も不倫などが告発されれば民法の範囲内に入ります。不妄語は一部、詐欺罪などに適用されるでしょう。

そういうわけで、「さて仏教に帰依しますか」ということで、五戒を授けられても、はたと困ってしまいますね。笑
*もっとも、日本では五戒よりも十善戒(じゅうぜんかい)が採用されることが多いです。十善戒は、「菩薩としてなすべき十の善いこと」十項目(『華厳経十地品』が根拠)になります。これは別記事で採り上げますが、十善戒のほうがまだ現代生活にも適用させやすいでしょう。

ということで、五戒のなかで特に現代的なトピックとして注目すべきこと、に焦点を当てて書いてみます。

不殺生

釈尊と同時代にジャイナ教というものがありましたが、ここの教えは不殺生を徹底しています。虫も殺してはいけないということで、箒で掃きながら道を歩く、といった具体です。

が、徹底するなら、微生物・細菌レベルまでいくことになり、ここまではどう考えても不可能ですね。

それから、動物の肉は良くないということで、ベジタリアンになる方もいらっしゃいますが、植物にもちゃんと魂はあります。

ちなみに、動植物を食べること自体が罪ではないか?という論点については、下記の記事をご参照ください。

参考記事:生きるために動植物を殺すことはスピリチュアル的に罪になるのか?

結局は、生かし生かし合う世界の中での奉仕業として有りがたく頂き、自分としては動植物の供養を上回るくらいの仕事を人生のなかで為していく、というトータルで考えるべきかと思います。

不偸盗

十善戒の「与えられたものをとってはならない」の解釈を応用すると、知識社会におけるアイディアの盗用などを含めて考えるといいかもしれません。

不邪淫

不邪淫については、別記事の「浮気や不倫をしたら地獄へ堕ちるのか?」でも書きました。
性的行為自体は、善でも悪でもないが、注意点として、

  1. 関係者を傷つけないこと
  2. 耽溺して、精神的な価値観を見失わないようにすること

が大事ということでしたね。

不妄語

不妄語については、スピリチュアルに関わっているものであれば、大妄語に要注意です。大妄語とは、悟りを偽ってはならないということです

よくあるのが、「神々や天使の名を騙る」あるいは、「菩薩の悟りを得ていないのに菩薩を騙る」といったところでしょうか。

この大妄語の罪は釈尊の教団でも最も重いとされていて、教団追放の対象となっていました。死後は地獄の最下層、無間地獄に赴くとされています。

それは厳しすぎるんじゃあ?と思われるかもしれません。

なぜ、ここまで厳しいかというと、

スピリチュアルに携わる者は、人間にとって最も本質的な部分である心とか魂に関わる問題を扱うので、この一番大事なところの前提で嘘をついたら、多くの人の本質的な部分である魂を腐らせてしまうことになるからなんですね。

ゆえに、魂がまとっている洋服ともいうべき肉体を殺める行為、すなわち殺人よりも罪が重くなるということなんです。

もっとも、大乗仏教のなかで、菩薩が狭義の菩薩界の境地であるというところから、仏法によって衆生救済を目指す者すべての呼称になっていったように、どうしても、神々とか天使の呼称はインフレを起こしやすい性質をもっています。笑

十界でいえば、天界の段階ですでに「〜神」が出てきますからね。ある程度のインフレは許容範囲かと思いますが、やはり、悟りや実績の客観視が必要、ということになるでしょう。

ココがあまりにかけ離れていて、十界説でいうところの、地獄や人レベルの心境であるのに、「◯◯大天使であるの生まれ変わりである」とか、

「超高次元から通信を受けている」などと騙って(というか本人は本気で思っているのかもしれませんが)、学ぶ人々を間違った方向に導いた場合、それは明らかに、死後は無間地獄(最深部)直通便の行為ということになります。

この問題は本当に多くて、本人はさぞや大天使の世界へ行くことだろうと思っていたけど、蓋を開けてみれば(死後ということですね)、周りは真っ暗、というケースが多々あります。

結果、死後も悪魔として暗躍するのがよくあるパターンです。

・不飲酒

この不飲酒というのも、扱いに困りますよね。

これはそもそも、釈尊の時代のインドで普及していたお酒がやたらと質が悪かった、というところに起因しているんです。今でいえば、LSDのような効果でしょうか。そういうものを摂取すると、フラフラになって修行どころか、家庭生活が崩壊したりするので、ガイドラインを設けたということですね。

現に、インドより寒い国(中国〜朝鮮〜日本)へ仏法が伝播するようになると、お酒は”般若湯(はんにゃとう)”と呼ばれるようになり、高僧であっても時に嗜むようになりました。そうした記録も残っています。

東南アジアのような小乗仏教の国では、「お酒じゃないからいいんだろう」ということで、僧侶が袈裟を着たまま煙草をスパスパ吸っていて可笑しいのですが、まあこういうのも一種の原理主義ですね。

仏教ではありませんが、明らかに菩薩界上段界のスピリットと思われるゲーテやカントもワインは嗜んでいますし、カントの朝食は紅茶一杯と煙草一服でした(カント特有の健康についての考察があったんでしょうね)。

結局、こうしたものも、生活の潤いとか嗜みであれば問題はないのであって、むしろ五戒当時の解釈を厳格に守るというのもまた別な問題が出てきます。

人は、内容がわからなくなると、カタチに走る傾向があります。これが原理主義の発生原因ですね。

この世のものは全て価値中立的ですので、身を滅ぼさないガイドラインとして戒律を考えていくということで良いと思います。

止持戒(しじかい)と作持戒(さじかい)

戒律は一般に「〇〇をしてはならない」という体裁をとりますが、戒めということであれば、「〇〇をなしていこう!」という積極的な戒があってもよいですよね。

むしろ、現象界(この世)の意味を積極的に評価するネオ仏法としては、このような積極的戒は大事と考えます。

伝統仏教の中でも、戒を止持戒(しじかい)作持戒(さじかい)に分類する思想がありました。

止持戒とは、漢字の語感で想像がつく通り、「〇〇をしてはならない」という戒です。

作持戒のほうが、「戒を作す(なす)」ということで、「〇〇をしていこう!」という積極性のある戒ですね。

人生というのは、忙しさの只中にあるとあっという間に過ぎていきます。

晩年に「で、なにしに生まれてきたんだっけ??」というふうにならないよう、「今回の人生でなにをすべきか?」という観点から、自分オリジナルの作持戒を創っていくと良いですね。

 

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