”無念無想”の危険性とは? – 禅宗編

無念無想
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無念無想の瞑想には危険がともなう

前回の真言宗に続き、禅宗について検討してみます。

禅宗については、タイトルの”無念無想”以外にも、”不立文字”、”頓悟”あたりも問題点として掘り下げていきたいですが、今回は”無念無想”について検討してみます。
*頓悟(とんご):一足飛びに悟ること

まず、禅宗であっても、無念無想の本質に気づいているのであれば批判するには当たらないことをお断りしておきます。

無念無想の本質は、肉体的な自我意識を脱却して、仏・真理という”実在”中心の意識に切り替えることなのです。

いわば、”自我中心”のプトレマイオス型天動説ではなく、仏法という”実在中心”のコペルニクス型へ切り替えていくということです。

コペルニクス型

ここのところを勘違いして、とにかく、「何も思わず、心は木石に同じ」と表面的に解釈すると危うい道に迷い込むことになります。

人間はアンデンテティのある実存エネルギー体として、常に一定の波動を発しているということを何度かお話しています。

 *参考記事:人生の意味とミッションとは? – ①人間の本質は”実存エネルギー”

心が整っている状態ではその人の認識力に応じた精妙な波動になっており、実在界(あの世)のいわゆる天国の世界に通じていることになります。

もちろん、どの程度の天国であるかは個人個人の悟りの段階によって異なりますが、天国的な波動を発している状態での瞑想はもちろん危険はないです。

問題は、心が整っていない状態で瞑想に入った場合ですね。

瞑想状態に入ると、表面意識と潜在意識の境界が曖昧になってきて、潜在意識と同調しやすくなります。

実はこの潜在意識がいわゆるあの世(実在界)のことでもあるのです。

潜在意識と交流しやすい状態になっているということは、波動の粗いスピリット(霊存在)、はっきり言えば悪霊・地獄霊ですね、こういう存在とも同調しやすくなっているということです。

ということは、心境が悪い状態(つまり自分自身の波動が粗い状態)で瞑想に入ると、いつにもまして、悪霊と同調しやすくなるということになります。

いわゆる、憑依ですね。

憑依

これが表面意識を留守にしているがゆえに、普段よりよけいに深く憑依される危険性が増すということになります。

 *私がこういうふうに書いているということは、すでに自分を使って実験済みということでもあります。

もちろん、瞑想の作法として禅宗でも各種の呼吸法を教えられる(例:数息観(すそくかん))のですが、呼吸法だけで心境自体を修正するのははっきり言って無理です。

そういうわけで、釈尊の教えとしては八正道を中心とした内省を説いていたわけですね。

内省そのものが、自己の過ちを修正しようとする作業であり、また、悪霊は内省ができないから悪霊になっておりますので、内省を開始するという行為自体が悪霊を遠ざける働きがあるのです。

そもそも、”無念無想”という言葉自体に、誤解される要素があると思います。

釈尊の基本教説である八正道に”正念”がありますよね。

これは、文字通り「正しく念じる」ということで、正念にはいくつかの意味があるのですが、ひとつには、「仏陀を念じる」という意味があります。

本来の”念仏”はここに起源があり、日本で中心的に唱えられている口称念仏は後世の付加です。

話が逸れましたが、釈尊の基本教説に”正念”とハッキリありますので、”無念”というのはそもそもが誤解を生む表現であると思いますね。

論旨をまとめてみましょう。

  1. 瞑想は潜在意識と交流する作法であり、潜在意識と交流するということは悪霊に接触する危険性も高まるということである。
  2. 心境が悪い状態では粗い波動を発しているので、同じく粗い波動をもっている悪霊と同調しやすい。
  3. したがって、”無念無想”の瞑想を行うと、表面意識で生活している時にも増して深く憑依される危険がある

これが、「無念無想の危険性」ということになります。

そもそも、無念無想を目的とすることが有効なのか

禅宗では、「心は木石の如し」と言われることがあります。

しかし考えてみれば、わざわざ瞑想までして木石になってどうするんですか?という観点がありますね。

瞑想までして木石になるのだったら、そもそも人間ではなく、木石に生まれてくればよかったのです。

わざわざ人間として、思惟(しい)・思考する存在として生まれてきた意味がなくなってしまいます。

思惟

おそらくは、無我の境地、一切の執われから離れている境地のことを”木石の如し”、”無念無想”と主張しているのだと思いますが、やはり誤解を招く表現でもありますし、

無我に至る手順として考えたとしても、内省を経ない無念無想はやはり前項で述べた危険性があります。

じつは『大般涅槃経』というお経の中に”八解脱”という考えがあり、その中の6番目に「無所有処定」(むしょうしょじょう)7番目に「非想非非想処定」(ひそうひひそうじょう)というものが出てきます。

これらの詳しい説明は省きますが、要は表面的な意味での”無念無想”に近いものです。

八解脱が本当に釈尊の考えであったのか、もはや確かめるすべはありませんが(仏典全体に言えることですが、どこからどこまでが釈尊の直説であるのか、証明するのは不可能です)、

仮に釈尊の真意であったとしても、八解脱の第一に「諸々の色(しき)を観察する」という段階が置かれているのを忘れてはいけません。

色(しき)は仏教では、”物体””肉体”というほどの意味ですが、

思惟やイメージ作用によってこの世(現象界)の存在の無常を観察し、執着から離れるということ、これが第一の解脱として説かれている、つまり、前提として説かれているということに注意しなければなりません。

したがって、八解脱を釈尊の思想として肯定したとしても、依然として前項で述べた危険性は残るということになります。

そもそも、釈尊はゴータマ・シッダールタ時代、王子の身分を捨てて出家したばかりの頃、”非想非非想処”といういわば”無念無想系”の修行を経験しておりますが、

「これは悟りの本道ではない」と一蹴して去っております。

ちなみに、ですが、

釈尊は成道(大悟を開く)前に、苦行時代も経験しておりますが、これも「悟りの本道ではない」として、その後、苦楽中道の道へ進んでおります。

中道

にも関わらず、とくに日本仏教では、千日回峰とか滝行・荒行などを依然として行っているところがあるのは不思議な光景というほかはなく、釈尊の真意にはずれていると言わねばなりません。

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