平均的日本人の感覚としては、死語、赴く世界として(善行を積んでいれば)「天国」あるいは「極楽」が想起されるでしょう。
そして、天国と極楽は、まあだいたい同じような感覚で捉えられていると思います。
ところが、「天国 極楽 違い」でググると、「天国と極楽はまったく違います」「仏教には天国はありません」と色々なサイトに書かれていたりします。
そこで、「天国と極楽はどう違うのか?」「実態論として、果たして天国と極楽はどのような世界になっているのか?」について、仏教・キリスト教観点のみならず、スピリチュリズムの観点からも解説していきたいと思います。
「天国」とは
「天国」とは本来はキリスト教・イスラームなどのセム的一神教における死後の領域です。
キリスト教で言えば、「イエス・キリストを信じ、その教えに従った人間」が還る世界です。
最も重要な教えは、「神への愛と隣人愛の実践」です。
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイ22:37-39)
”天国”は口語訳聖書の訳語ですが、、新共同訳聖書では「天の国」「神の国」などと記されています。
ただ、キリスト教では天国が死んですぐ赴くところなのか、最後の審判ののちに”復活”して肉体を与えられたのちに成就する地上天国なのか、いまひとつ分かりにくいところがあります。
イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マタイ4:17)
ここの聖句を読むと、近々には”最後の審判”が起きて地上に天の国が成就するかのようにも受け止めることができます。
一方、
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:39-43)
この文脈では、やはり、死後、楽園=天国へ赴く、というふうになりそうです。
なので、
- 死後、天国と地獄に別れる
- 終末の”最後の審判”ののち、肉体を与えられて”復活”し、そこで(イエスの福音を信ずる者たちの)地上天国が現出する
というふうに整理できそうです。
*参考記事:最後の審判はいつ来るのか?
仏教における「天界」と「極楽」
「天界」とは
まず、仏教/仏教学においてはキリスト教的な意味での「天国」はないとされています。
あえて、相当するのが”天界”と呼ばれる領域です。
天界は人のみならず、神々や天人が住む世界でもあります。
人間が天界へ還る(仏教的な文脈では「天界に生まれる」)ためには功徳を積む必要があります。
その功徳を積む方法論が、仏教では、有名な施論・戒論・生天論(せろん・かいろん・しょうてんろん)、まとめて”三論(さんろん)”と呼ばれるものです。
- 施論:善行を成して
- 戒論:悪行を成さなければ
- 生天論:天界へ生まれることができる
という内容で、これは釈尊が在家信者向けに行なった基本説法です。
この基本説法を行った上で、「この人は飲み込みが早い」「機根が優れている」という信者に対しては、四諦八正道などの教えを説いたのでした。
*参考記事:四諦八正道のわかりやすい解説と覚え方
このようにステップを踏んで説法の内容をグレードアップしていくやり方を「次第説法(しだいせっぽう)」と言います。
「天人五衰(てんにんごすい)」という言葉があるように、天界においてもそこで永遠に憩えるわけではなく、やがて別の世界へ輪廻をしていくことになっております。
ゆえに、仏教的価値観では、天界はいまだ「迷いの世界」「欲界」に分類されているのです。
とはいえ、素晴らしい世界であるのは間違いがないでしょう。
ちなみに、「天人五衰」は三島由紀夫の小説『天人五衰』にもなっていますね。
「極楽」とは
極楽は「極楽浄土」の略で、は浄土系宗派(浄土宗、浄土真宗、時宗など)において、阿弥陀如来の名号を唱えると死後、赴くとされている世界です。
浄土は「煩悩や汚れのない清浄な世界」のことです。
極楽浄土が有名なので、「極楽」と言われていますが、浄土には他にも、薬師如来の「東方浄瑠璃浄土(とうほうじょうるりじょうど)」など、種々様々な浄土があるとされています。
が、やはり「阿弥陀の本願力によって、名号を唱えるだけで浄土へ赴くことができる」という有り難さ(お手軽さ?)もあって、極楽浄土が一番人気になっているわけです。

阿弥陀如来(蒲倉の大仏)
そして、極楽浄土⇨極楽と略して言われるようになったと。そういう経緯です。
*参考記事:”南無阿弥陀仏”と唱えるだけで救われるのは本当なのか?
よく誤解されているのですが、浄土というと阿弥陀如来の大慈悲心のもとで「あーこりゃこりゃ」じゃないですが、永遠の憩いの世界にある・・・と思われがちなのですが、そういうわけではないのです、仏教/仏教学的には、ですよ。
大乗仏教の理想は「自らも仏陀になることを目指し、そして菩薩として衆生救済に勤しむ」ことですから、浄土というのは、いわば、「仏陀になる(本来の意味での”成仏”)ための特進クラスに入学する」といった意味合いです。
もちろん、極楽浄土は一般に想像されているように、「美しく安らぎのある世界」であるのは間違いがないでしょうけれども、キリスト教の天国と違って、極楽の目的はあくまで「自らも涅槃に入り、仏陀になること」とされています。
「天国」と「極楽」の類似点と相違点
光と宝石に輝く世界
聖書では、天国は光満てる国と描写されています。
この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである。(黙示録21:23)
”都”とは、「新しいエルサレム」すなわち「天国」のことです。”子羊”は「イエス・キリスト」のことです。
また、天国は種々の宝石で輝いている世界とされています。
都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。(黙示録21:11)
都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった。 都の城壁の土台石は、あらゆる宝石で飾られていた。第一の土台石は碧玉、第二はサファイア、第三はめのう、第四はエメラルド、 第五は赤縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。 また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。(黙示録21:18-21)
一方、極楽も光満てる世界として描かれています。
極楽浄土を主催する阿弥陀如来は、原語では”アミターバ”であり、これは「無量光」という意味です。
阿弥陀仏の無限の光は極楽だけでなく、あらゆる仏国土を照らしているとされています。
そして極楽は、
金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・メノウなどの7つの宝などのさまざまな宝石で造られています。(無量寿経)
極楽の大地は瑠璃のようであり、黄金の道が通じています。(観無量寿経)
といったふうに、宝石のイメージで彩られています。
このように、天国と極楽はともに「光に満ち、宝石に彩られた世界」と表現されている共通性があります。
信仰(信心)による救いと信仰告白(口称念仏)
キリスト教では、とりわけプロテスタントでは、神による救いは信仰によってなされ、天国へ招かれるとされています。
わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。(ローマ3:28)
浄土教においても、救いは弥陀の本願力にすがることによって極楽浄土へ赴くとされています。
阿弥陀如来は、まだ修行中の法蔵菩薩だったときに48の誓願を立てました。そのなかでも18番目の誓願が有名です。
たとえ、わたくしが仏になる時が来ても、十方の衆生が至心信楽、すなわち、心から我が本願を信じ、わが国土に往生したいと願って乃至十念、十回だけでも我が仏名を称え。もし往生することができないようであれば、わたしくは仏にはなりません(無量寿経)
ここで、現に法蔵菩薩がすでに阿弥陀如来になっているということは、その誓願はすでに成就されている、と見做されて、「信心による救い」が確定しているとされているのですね。
そして、注目すべきは「十回だけでも我が仏名を称え」という箇所です。ここが有名な口称念仏(くしょうねんぶつ)による極楽往生の根拠になっているのです。「南無阿弥陀仏」と唱えることです。
じつは、聖書においても「称える」と言いますか、「口で公に言い表す」ことによる救いが書かれている箇所があります。
口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(ローマ10:9-10)
このように、信仰(信心)と信仰告白(口称念仏)による救い、という共通項を見出すことができます。
罪の自覚から救いへ
使徒パウロは自らの内なる深い罪深さを嘆いています。
わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。(ローマ7:18-19)
浄土真宗の親鸞も同様に自らの内なる悪を深く自覚していました。
いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。(歎異抄)
自ら善を成そうとしつつ、成し得ない罪深き身を嘆く時、そうした自分であっても、慈悲深く救ってくださる存在に全託しようという圧倒的な希求が生まれます。
そうした点においても、キリスト教と浄土宗(浄土真宗)には共通点があります。
終末と末法思想
いわゆる「下降史観」とでも言うべきものが、キリスト教と仏教では共通しているところがあります。
終わりの日には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。(Ⅱテモテ3:1-2)
さらに、ヨハネの黙示録においては詳細に時代の悪化が描かれているのは周知の事実でしょう。
仏教においても、「末法思想」があります。
釈迦没後、時代は正法・像法・末法の時代へと次第に悪化の一途を辿ります。
末法の時代においては、現世は厭離すべき穢土であり、ひたすらに来世の極楽浄土を欣求することが求められています。
ただ、仏教(浄土宗)においては現世は厭離すべき穢土ですが、キリスト教においては最後の審判ののち、「やがて地においても神の国が実現する」という希望が描かれています。
輪廻(生まれ変わり)について
キリスト教では、輪廻転生については明確に説かれていませんし、教理としてはも輪廻転生が認められているわけではありません。
ただ、聖書のそこかしこに輪廻を前提とした記述を垣間見ることはできますが、その点は後述いたします。
一方、仏教のほうはもともと「輪廻からの解脱」を目指していたわけですから、当然、輪廻転生は前提となっているわけです。
*参考記事:仏教は輪廻転生を否定していない – 解脱論のベースとしての輪廻
浄土宗においては、どうでしょうか。
法然の思想をさらに一歩進めた親鸞は「二種回向(にしゅえこう)」を説いています。
二種回向とは、
- 往相(おうそう):死んで浄土へ赴くこと
- 還相(げんそう):浄土から衆生救済のために現世へ戻ってくること
このふたつを指します。
ゆえに、浄土系のなかでも、少なくとも親鸞の浄土真宗は輪廻転生を認めていることになるわけです。
スピリチュアル的に観た天国と極楽
以上、「天国と極楽の類似点と相違点」を伝統的な神学・仏教学の観点から検証してまいりました
以下は「スピリチュアル的に観た」というより、私の霊的洞察力から観た天国と極楽の実相です。なので、学問的には証明できないことをご承知ください。
「光と宝石に輝く世界」について
これについては、上述した通りではあるのですが、2点コメントしておきたいと思います
霊界の様相はアップデートしている
霊界というのは結局のところ、人間の思いや認識力、願望が投影されている世界なのです。
上述したような「さまざまな宝石に彩られ」とか、あるいは極楽については「蓮の花が咲き…」というふうに経典では描かれていますが、これらはあくまで、福音記者/経典製作者たちの、その当時の理想郷の描写なのです。また、彼らの認識力においてそのように見えていた、ということでもあります。
なので、現代人が天国や極楽に赴いたとしたら、やはり現代人が「これは美しい」という願望・認識力に応じた世界が展開していると思われます。
霊界も”翻訳”された世界であり、種々の段階がある
さらに、突っ込んだ見方をすると、本当の(上位)霊界というのは、「さまざまな宝石が」といったようなものではなく、神仏の光そのものの世界なのです。
人間も下位霊界においては、手があり、足があり…といったふうに地上世界と同じような格好・生活様式を保っていますが、実際の本質的なところはそうではありません。
人間の本質というのも、本来は「(その人に応じた)目的性をもった光そのもの」であり、上位霊界においてはもはや人間の姿をとっておらず、光そのものとしか言いようのない形態で活動しております。…というより、”形態”という有り様を超越しているのが人間あるいは存在一般の本質なのです。
下位霊界の様相はあくまで、人間に分かるように(分かりやすいように)「翻訳された」世界なのです。
福音記者/経典製作者が垣間見た世界も、彼らの認識力に応じて「翻訳された」様相を見たに過ぎないのです。
ただ、多くの人が上位霊界に還るわけではないので、「現代にふさわしい」「国や地域に応じた」天国・極楽世界が展開されていることと思います。
そういう意味では、キリスト教徒においてはキリスト教徒なりの美的感覚に相応した世界が天国であり、仏教徒には仏教徒なりの美的感覚が投影された極楽世界が展開しているに過ぎない、そういった違いに過ぎない、と言えるかと思います。
「信仰による救いと信仰告白」について
キリスト教(あるいは、他の正統な宗教でもそうですが)的な天国、あるいは、浄土宗的な極楽も、信仰と信仰告白によって赴くことができる世界である、というのは真実だと思われます。
浄土宗に限らず、仏教では解脱の初期段階として「信解脱(しんげだつ)」というものが説かれています。
これは文字通り、「信仰心による解脱」ですね。
ただ、信解脱のより上位の段階として「慧解脱(えげだつ)」、- これは智慧による解脱という意味ですが – これが説かれています。
つまり、信仰による解脱、言葉を換えれば、信仰によって極楽あるいは天国へ赴くことはできるのですが、それはあくまで初歩的な極楽(天国)の段階である、と言えるのです。
キリスト教においても、
神が人となったのは、人が神になるためであった(アレクサンドリアのアタナシオスの言葉)
という、いわゆる「神成(しんせい)の思想」があります。
これは、神が受肉してキリスト・イエスになったことなり、その”贖い”によって、罪人は義人となる。さらに、人は神性に預かることが可能になった、という思想です。
ここではやはり、「神性に預かる」にも段階がある、という考えが導き出されます。
つまり、やはり、天国にも各人の神成の度合い、霊的覚醒の度合いによって、段階差があるということなのです。
なので、イエスとイエスの福音を信じることによる天国への招き、「南無阿弥陀仏」と唱える信心による極楽への招き、というものも、やはり初期段階的な天国・極楽だということが言えます。
信仰を前提ととしつつ、「神とは何であるか」をより理性的に理解していくことをキリスト教の文脈では「知解(ちかい)」と言います。これは先に述べた仏教における慧解脱に相当するでしょう。
こうした知解あるいは慧解脱によって、スピリチュアル的に言うところの「霊性進化」が促され、より上位の天国(あるいは極楽)へと赴くことができるのです。
つまり、ひとことで天国・極楽と言っても、それらは一様な世界ではなく、さまざまな段階差があるということです。
天国・極楽にも上位の天国(極楽)、さらに上位の天国(極楽)・・・という良い意味での差別化された世界が展開されているということです。
「罪の自覚から救いへ」について
人間は完全に罪から免れることはできない。ゆえに救いは神仏の恩寵による、というのは事実です。
しかし、わざわざ地上に生まれてきて、その度に一方的に救われるだけ、というのでは、何のために地上に生まれてくるのか分からないところがあります。
神的実在が「地上生活」というシステムを作ったのにはそれなりの理由があるはずです。
その理由というのがやはり「霊性進化」のため、ということになります。
天国や極楽では波動が似通っている人同士が集まっているため、居心地が良いのですが、「霊性進化」という意味では頭打ちがあることになるのですね。
ところが、地上に肉体をもって生まれることによって、波動の違う人とも会うことができるようになります。そこで、新たな刺激を得て、霊性進化が促されるのです。それが、わざわざ地上生命を営む目的なのです。これが人生の意味です。
また、悪しきカルマを修正しつつ、自らの資質に応じて地上天国化に貢献していく、というのが人生のミッションです。
こうした「人生の意味とミッション」については下記の記事で詳述していますので、参考になさってください。
*参考記事:人生の意味とミッションとは? – 最勝の成功理論を明かします
「終末と末法思想」について
キリスト教における終末については、ローマ帝国の滅亡というかたちで「すでに成就した」という説と、今後、終末的な様相が現れ、キリストが天の雲に乗って現れ、最後の審判を経て成し遂げられる、という説があります。
後者の説については、どう考えるか?最後の審判はいつ来るのか?
これについては、下記の記事で詳述していますので、ご参考になさってください。
*参考記事:最後の審判はいつ来るのか? – 相対的終末と実存的終末で理解する
上記の記事でも述べていることですが、じつは「最後の審判」はオリジナルとしてはゾロアスター教で最初に説かれ、それがキリスト教などのセム的一神教に影響を与えた、という説があります。
そして、面白いことに、そのゾロアスター教の終末思想は大乗仏教とりわけ浄土教に影響を与えているという説があるのです。
<無量寿経>においては、阿弥陀仏の救済の前に、五濁悪世(ごじょくあくせ)の世が到来するとされています。
いずれにしても、マクロ的な視点での「最後の審判」あるいは「阿弥陀仏による救済」と、それからミクロ的視点、つまり個人のレベルの審判と救済、という観点がありうると思っています。
ミクロ的な視点というのは、つまり、私たちが肉体の死後、自らの生涯を振り返り、有体に言えば、天国(極楽)か地獄へと振り分けられるということです。

このことは、東西の如何を問わず、じつは普遍的に行われる<審判>であると言えると思っています。
私たちは霊性進化を目的に地上に肉体をもって生まれてきますが、一方ではこれは一種の「魂のテストである」とも言えるのですね。
そのテストの合否の判定が行われるということです。
とはいえ、仮に地獄に堕ちたとしても、それは長い目で見れば、「魂の教育の一環」として捉えることができます。いわば、「自業自得」の学びです。
ここでもやはり、霊性進化の法則が貫いているのです。
とりわけ、キリスト教では地獄の様相の描写が希薄なところがあり、「地獄に堕ちたら永遠に業火に焼かれる」と理解されていますが、スピリチュアル的に(まあ私の個人的見解ですが)みれば、そんなことはあり得ません。
そのようなことであれば、あまりに神の試練の過酷さが強調され、<神の愛の無限定性>に齟齬をきたすことになってしまいます。
やはり、仏教においてもキリスト教においても、地獄はひとつの「魂の教育機関」「補習期間」であり、やがてはそれらの経験も魂の糧として転化していき、霊性進化に資するようになっていく、と捉えるべきでしょう。
「輪廻(生まれ変わり)」について
キリスト教のおいては、上述しました通り、輪廻転生は教理として認められておりません。
ただ、実際は聖書のここかしこに、輪廻を前提とした記述はあるのです。
たとえば、「エリヤの再来」です。
見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。(マラキ3:23)
この聖句によって、人々はエリヤの再来を待ち望んでいたわけですが、洗礼者ヨハネの出現はまさに「エリヤの再来」として人々に受け止められたのでした。
あるいは、こういう箇所もあります。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ9:2)
ここでは、「生まれつき目が見えない」原因のひとつとして「本人ですか」との疑問が投げかけられています。
ということは、今世の「生まれつき」の”前の生”があることになりますよね。前世です。
このように、聖書のここかしこに、実は輪廻を前提とした記述があるのです。
あるいは、欧米を中心としたキリスト教圏においても、近代では、たとえばエドガー・ケイシーなどの仕事によって、「輪廻転生はあるのではないか?」という意識が浸透してきています。アメリカにおける輪廻転生を信じる人の割合は、調査によって異なりますが、概ね20%から30%程度とされています。
『前世を記憶する子供たち』などの本もかなり売れているようですが、やはり、ここらへんは天上界の側からのキリスト教修正運動がなされていると予測されます。
実際、たった一度の”生”だけでは、人は完成に至ることはできないのです。
やはり、無限とも思われる輪廻転生の過程によって、徐々に霊性が開花されていく、と見るべきでしょう。
「天国と極楽の違いについて」まとめ
つらつら「天国と極楽の違い・共通点」について書いてきましたが、結局、「違い」というのは表面的な教理的な部分であって、実態論としては、実は天国も極楽もそんなに変わらないのです。
たとえば、輪廻のところで、ちょっと説明不足だったかもしれないところを補足して例に挙げてみますね。
「極楽は仏陀になるための特進クラスで…云々」と書きましたが、でも極楽往生を願う平均的な人々が「仏陀になりたい」などと本気で思っているでしょうか?そんなことはなく、「とりあえず、死後、安らぎの世界へ行きたい」と願っている人が大部分であるはずです。
そして、そういう願いを持っているということは、実際にそういう世界が展開しているということでもあります。”思い”が展開しているのが実在界(あの世)だからです。
なので、極楽の”実情”としては、阿弥陀如来によるスパルタ?教育が行われているなどということは実態論としてない、と言っていいでしょう。
天国と極楽について、”輪廻”そのものに違和感を持たれた方もいらっしゃるかもしれません。教義的にですね。
でも、私たちの感覚として、本当にそういう「光と宝石に満ち溢れ・・・」といった世界に永住したいと思えるのかどうか、もう少し、想像力をふくらませていただきたいのです。
話は一見、飛ぶようですが、たとえば、FIRE(早期リタイア)は誰もしも憧れを持つところかもしれませんが、実際にFIREを実現してみると、最初の1、2週間はいいですが、だんだんと飽きてくるものです。これは私の経験でもそうですし、いろいろな人が語っているところでもあります。
結局、人は単に「居心地が良い」だけでは満足できないのです。
天国・極楽は、素晴らしい世界ですが、穏やかな美しい風景と、周りは気が合う人ばかり…というのは、最初はもちろん、居心地がいいのですが、だんだん飽きてくるところがあるのです。新しい刺激が欲しくなってくるのですね。
これはちょっと想像してみるとお分かりになるのではないかと思います。
避暑地がいくら居心地がいいからといっても、ずーっとそこに居たくなりますかね?やはり、「そろそろ仕事したくなってきたな、日常のほうが懐かしくなってきた」という時期がやってくるのです。
じつはそうした心境になった時が、次の「生まれ変わり」、つまり輪廻転生の時期がやってきたということでもあるのです。
なので、スピリチュアル的にみた場合、天国でも極楽でもつぎの輪廻転生の機会が用意されております。
輪廻を一例として挙げましたが、他の論点もだいたい同じです。
あえて天国と極楽の違いを述べるとするならば、キリスト教的(セム的一神教的)価値観を持っている人は天国へ、仏教的価値観を持っている人は極楽へ、と、だいたいおおまかにそれくらいの違いと言っても良いでしょう。







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